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名田庄地区の文化が支える地域医療――中村伸一先生が考える“健康”の定義

おおい町国民健康保険名田庄診療所 所長 中村 伸一先生

京都との県境にある福井県名田庄村(現:おおい町名田庄地区)は、海に近く山に囲まれた自然豊かな町です。おおい町国民健康保険名田庄診療所 所長 中村 伸一(なかむら しんいち)先生は、1991年に赴任して以来、30年以上にわたって地域の健康を支えてきました。自宅で最期を迎えたいと願う地域の方々の声に応え在宅診療に力を入れてきた中村先生に、最期まで健康でよりよく生きるための心構えについてお話を伺いました。


“お互いさま”文化に触れて変わった人生観

福井県名田庄村(現:おおい町名田庄地区)の診療所に私が赴任することになったのは1991年、医師になって3年目のことでした。30年以上、名田庄地区での地域医療に携わっていますが、初めは自ら志して赴任したわけではなく、赴任当初は“赴任したからには義務を果たそう”という思いしか抱いていませんでした。しかし次第に、地域の方々と交流が深まり、医師として認められていくなかで、この地域で地域医療に携わることに充実感を覚えるようになっていったのです。

 

赴任から3年目、往診でくも膜下出血を誤診

大きな転機が起こったのは、赴任して3年目のことでした。私は、ある患者さんのくも膜下出血を見逃してしまったのです。患者さんは62歳の女性。21時頃に、甥御さんから往診依頼がありました。その患者さんは約2時間の長距離を自ら運転し名田庄にある自宅に着いてすぐに飲酒して、鍋料理を食べたところ吐いてしまったそうです。肩の痛みを訴えられていましたが、頭痛の自覚症状はありませんでした。念のため、くも膜下出血の可能性を想定しながら、肩に痛み止めの注射を打ち、点滴で体内のアルコール濃度を薄めました。約1時間後、点滴が終わると、「おかげさまでよくなりました」と患者さんは笑顔を浮かべられたので、くも膜下出血ではないと判断し帰宅したのです。

ところが、0時頃になり「やはり様子がおかしいのでもう一度診てほしい」と電話がかかってきました。再び往診した時には、すでに意識が朦朧(もうろう)としていたため、救急車を手配し同乗して私も病院へ向かいました。CT検査の結果は、くも膜下出血でした。

 

甥御さんにかけられた思いがけない言葉

“もうこの土地にはいられない”と頭が真っ白になりながらも、責められることを覚悟し甥御さんに謝りました。しかし、甥御さんは一言も私を責めなかったのです。それどころか「何度も夜中に呼び出して悪かった」と逆に謝られてしまいました。そして、「こういった間違いは誰にでもある。お互いさまだよ」と慰めの言葉までかけ、許してくれたのです。この言葉に私はとても救われました。幸いなことにその患者さんは一命を取りとめ、後遺症が残ることもありませんでした。

この経験がきっかけで、私の人生観は180度変わったのです。若い頃は尖った性格をしていた私ですが、それからは人を許せるようになりました。そして、地域の方たちに何か恩返しをしなければならないと思うようになったのです。


名田庄地区に根付く“お互いさま”の文化

“お互いさま”の患者と医師の関係性

画像提供:PIXTA

 

名田庄地区は、かつて無医地区*だった時期もあるため、高齢の方たちは地域に医師がいない不便さを経験しています。そのことによって、医療を受けられる環境を維持するための知恵を持っているのではないでしょうか。

世の中に“よい医師”もいなければ、“よい患者”もいないと考えています。あるとすれば、両者の“よい関係性”だと思います。名田庄地区の方たちは、医師になったばかりの私に対しても“よい患者”であろうと努力し、“よい関係性”を築こうとしてくれたのです。そうなると私も自然と“よい医師”らしく振る舞うようになっていきます。“お互いさま”の文化が根付く環境の中で、地域の方々に育ててもらったことを、とてもありがたく感じています。

 

*無医地区:当該地区の中心的な場所を起点として、おおむね半径4kmの区域内に50人以上が居住しており、かつ容易に医療機関を利用することができない地区を指す。

 

医師も地域の力に助けられている

2003年、私は特発性頭蓋内圧低下症による慢性硬膜下血腫を患い手術を受けることになりました。くも膜下出血の誤診から、10年後のことです。約2か月間仕事を休んだ後、ようやく体調が戻ってきた2004年からは新医師臨床研修制度が始まり、地方の医師が不足するようになりました。1999年から2004年まで、私は村の保健福祉課長を兼務し、当診療所は医師2人体制で診療を行っていました。しかし、医師不足のあおりを受けて、2005年からは再び私1人で診療することとなったのです。

2003年からの3年間は、このようにとても大変な時期でしたが、地域の方々が自主的に夜間や休日のいわゆるコンビニ受診を控えてくださったおかげで、なんとか乗り切ることができました。2002年度には年間1,098件あった時間外・休日診療も、2003年度以降には年間120件前後に激減しています。医師である私を地域の共有財産の1つとみなして、私が擦り減らないように配慮してくださったのでしょう。皆さんで話し合った結果ではなく、自然とそうなったのは、お互いの顔が見える地域だからこそではないかと思います。


コロナ禍でも変わらないお互いさま・助け合いの精神

コロナ禍になり、福井県に第1波の流行が起こったときには、「先生は大丈夫か」と逆に心配し声をかけてくださる地域の方もいらっしゃいました。

また、新型コロナウイルス感染症にかかると、この地域の方々は隠すことなく周囲の方たちに伝えています。平日の昼間、自宅に車が止まっていれば具合が悪く休んでいることが周囲の方たちにも分かりますから、そもそも隠すことが難しいのです。すると、近くに住んでいる方たちは、その家に電話をかけて困っていることがないか聞き、玄関先に食事や必要な日用品を届けに行くのです。公的な支援を待つのではなく、お互いに支え合い助け合ってコロナ禍も乗り切っていました。


中村先生が考える“健康”の定義とは

WHO憲章では、病気にかかっていてもいなくても、肉体的・精神的・社会的に全て良好な状態であることが“健康”だと定義されています。しかし、決して肉体的に良好といえる状態でなくても自分らしく過ごす患者さんとの出会いを通じ、「“健康”とは何だろう」とあらためてその定義について考え、模索するようになりました。

 

病気にかかりながらも自分らしく過ごした患者さん

肺線維症を患っていた94歳の女性は、とても几帳面な性格の方でした。亡くなる直前、自らの葬儀費用を細かく計算したノートをご家族に託してから亡くなられました。

また、前向きな性格の85歳の男性は、末期の肺がんで在宅酸素療法を受けながらも「寝たきりになったら困る」と、亡くなる前日まで歩行訓練をしていました。息を切らしながらもポジティブに足踏みをしている患者さんを見て、“この患者さんは末期だけれど健康ではないだろうか”とふと思ったのです。同時に“自分の感覚はおかしいのだろうか”という思いもよぎり、それから“健康”の定義についていろいろと調べてみることにしました。

すると、順天堂大学 名誉教授の島内 憲夫(しまのうち のりお)先生の“たとえ病気や障害があっても、いきいきと生きている、生きようとしている状態”のことを“健康”とする定義に行き着きました。この定義に基づくと、几帳面な方は最期まで几帳面に、前向きな方は最期まで前向きに自分らしく生きようとしていたわけですから、どちらの患者さんも最期まで“健康”だったといえるのではないでしょうか。

 

最期を迎えるために周囲の方ができること

介護をする方には、以下の3つのポイントを心構えとしてお伝えするようにしています。

 

  • ・ふつうにする

“人生の最期はああしてあげたい、こうしてあげたい”といろいろな希望を思い描くこともあるかもしれません。しかし、具合が悪くなると日常の当たり前のことをふつうにできるだけでありがたく感じる方も多くいらっしゃるのではないかと考えています。

 

  • ・頑張らない

何としても自分1人だけで介護をしようと頑張らずに、まだ元気なうちから周囲に状況を伝えて、公的にも私的にもサポートを受けられるように準備しておくとよいでしょう。

 

  • ・こだわらない

何が何でも自宅で看取りたいとこだわりすぎないことも大切です。ギリギリまで無理に在宅診療を続けることで、逆に具合が悪くなり入院してしまうケースもあります。在宅診療はあくまでも選択肢の1つとして捉え、無理なら病院に行けばよいと考えていたほうが、むしろ長くご自宅で過ごせることもあるのです。


最期まで自分らしく過ごすために

最期まで自分らしく“いきいきと生きて逝く”ためにも、エンディングノートを書いておくことを皆さんにおすすめしています。これまでの人生を振り返り、人生の最期をどのように過ごし、どのように迎えたいかをあらかじめ記しておくとよいでしょう。

画像提供:PIXTA

 

私自身は、“ドロクター”として最期まで、自分の強みであるユーモアを忘れないでいたいと考えています。“どろくた”というのは、名田庄地区の方言で“やんちゃ”という意味です。自宅か病院かという形にはこだわりません。ユーモアを忘れずに最期を迎えることこそが自分らしいのではないかと考えています。

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