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尊厳死とは何か——生き方・死に方を選ぶ自由の重要性

医療法人裕和会 理事長 長尾和宏先生

“尊厳死”という言葉をご存知でしょうか。尊厳死とは、人生の最終段階において過剰な延命治療を行わずに、自然な経過に任せた先にある死のことです。自然死、あるいは平穏死とも呼ばれます。「この半世紀の間に医療技術の進歩とともにさまざまな延命治療が可能になり、壮絶な死が増えた」と長尾 和宏(ながお かずひろ)先生(日本尊厳死協会* 副理事長、医療法人裕和会 理事長)は言います。世界各国で法的な容認が進む尊厳死の概要と重要性について、長尾先生にお話を伺いました。

*日本尊厳死協会:1976年の創立以来、終末期における医療選択の権利が保証される社会の実現を目指して活動する市民・人権団体、公益財団法人。リビング・ウィル(終末期医療における事前指示書)を発行し、登録管理を行っている。


尊厳死とは何か

尊厳死とは、自然死、あるいは平穏死とほぼ同義語です。すなわち、人生の最終段階において過剰な延命治療*をしない(不開始)、もしくは中止して、自然な経過に任せた先にある死のことを指します。重要なポイントは、早期から十分な緩和ケアを提供するという点です。決して“何もしないこと=尊厳死”ではありません。

*延命治療:延命を目的とした治療。人工呼吸器や胃ろうの設置、点滴など。


尊厳死と安楽死——言葉の定義について

安楽死という言葉に含まれるいくつかの概念

尊厳死に関わりを持つ言葉として、安楽死があります。“安楽死”には、積極的安楽死、消極的安楽死(一般的に“尊厳死”と同義とされる)、医師による自殺幇助(直接的安楽死、間接的安楽死)など、いくつかの概念があります。

ただし、私は基本的にこれらの形容詞をつけた安楽死という言葉を使いません。なぜなら、形容詞をつけることで概念が混同したり、議論の元になったりして、むしろ理解を妨げていると考えるからです。そのためここでは、一般的な定義をご説明します。

 

“安楽死”とは、自分自身で実行できない状態において、行為の主体として他人が関与し、身体的侵害によって死をもたらすことです。

このうち、積極的安楽死とは本人の命を終わらせる目的で“薬物を投与すること”を指し、一方、消極的安楽死とは同様の目的で“薬物を投与しないこと”を指します。たとえば、植物状態(大脳は機能しなくなったものの、視床下部と脳幹は機能し続けている状態)の患者さんに対して、本人の意思に基づき、致死量の鎮痛剤を投与するのは積極的安楽死で、延命治療をせずに自然に死を迎えるのが消極的安楽死(尊厳死)です。

自殺幇助とは、自殺の意図を持つ者に有形・無形の便宜を提供することにより、その意図を実現させることです。行為の主体として本人が関与します。たとえば、処方された薬や毒物、そのほかの行為によって自ら命を断つことを指します。医師が注射を打つなどして死に至った場合には直接的安楽死となり、本人が薬を飲んだ場合などは間接的安楽死となります。日本において、自殺幇助は倫理的・法的に許容されていません。


日本における尊厳死の考え方はどのような歴史を辿ってきたのか

我が国において、1960年代までは“尊厳死”が当たり前でした。すなわち、ほとんどの方が自宅で最期を迎えていたのです。しかし1976年に、自宅で亡くなる人と病院・診療所で亡くなる人の割合が逆転しました。

 

 

医学の発展とともにさまざまな延命治療が可能になり、終末期というものが見えにくくなりました。死は“医学の敗北”とされてきたのです。実際、私が医師になった1980年代には、末期がんの患者さんに対しても人工呼吸器をつけていました。このようにして、かつては当たり前だった尊厳死が徐々に珍しいものへと変わっていったのです。

ただ、在宅医療の現場では尊厳死が実現できているケースも多くあります。尊厳死に関しては、同じ医療でありながら、病院医療と在宅医療で大きな差が生じている状況です。


尊厳死に対する議論や法的担保——日本と世界各国の違い

日本以外の国々は、すでに“安楽死”のあり方について議論している段階です。一方、日本はまだ“尊厳死”さえ議論が十分になされていません。たとえば尊厳死(自殺幇助を除く、治療中止によるもの)は、アメリカ全土、イギリスなどの欧州諸国、台湾やシンガポールなどのアジア各国で認められています。そして、安楽死(積極的安楽死および医師による自殺幇助)については、オランダやベルギー、ルクセンブルク、オーストラリアの一部の州などで法的に容認されています。

さらにイギリスでは、認知症など自分では意思決定を実行できない状態にある方を支援するという視点で“ベスト・インタレスト(最善の利益)”という概念がつくられました。これは意思決定能力がないと法的に認められた人に代わり、家族や友人らが集まって話し合い、本人らしさを反映した決定を確保するものです。このような世界各国の状況を知れば、もはや日本は尊厳死の議論においてガラパゴス化していると言っても過言ではないでしょう。

 

写真:PIXTA


尊厳死が実現しないことによる問題

最期を迎える場所がどこであっても、人間の尊厳は守られるべきです。それなのに、現在はその方がいる場所によって最期の姿が全く違う。これは患者さんにとって不幸なことです。

亡くなる直前まで多量の点滴を続ければ、手足がひどくむくみ、患者さんはとても苦しい思いをします。加えて人工呼吸器や胃ろうなどの管が何本も体につながれた状態になり、最終的には“持続的鎮静”といって、麻酔を使い眠らせるような形で最期を迎えることもあります。これは果たして私たちが望む最期といえるのでしょうか。


長尾 和宏先生が尊厳死の重要性に気付いたきっかけ

高校生の頃、父親がうつ病を患い、最終的に自死しました。それまでどこか遠いものだった“死”というものを、私は初めて受け入れ、考えるようになりました。10代の頃からずっと、そして今も。医師になってから10年ほどは自分自身もできる限りの延命治療を提供していました。たとえば肝硬変末期の患者さんの場合、食道胃静脈瘤(しょくどういじょうみゃくりゅう)の破裂により突然吐血や下血が起こり、血だらけの状態で最期を迎えることも多くありました。末期がんの方にも人工呼吸器をつけ、亡くなる直前まで高カロリーの点滴や抗がん剤を入れ続ける。そのようなことが当たり前だったのです。その結果、壮絶な死ばかりを見ていました。

 

「これはおかしい」と思い始めた頃、延命治療を全て拒否する食道がんの患者さんに出会いました。その方は食道がんを患い口からの食事ができなかったのですが、点滴を拒否されて、水だけを飲んでいました。当時の私は「このような状態では体力も衰え、1週間ほどで亡くなってしまうだろう」と予測しましたが、意に反して元気になっていく。栄養を取らないので徐々に痩せてはいくのですが、病院内を1日中元気に歩き回り、驚くことに亡くなる前日まで院内でボランティア活動をしていました。そして最期は余計な管や麻酔も必要とせず、苦しむことなく、穏やかに息を引き取られました。これが、私が目にした初めての“尊厳死”でした。あのときの衝撃は今でも忘れられません。

 

2年後の1995年、兵庫県尼崎市に長尾クリニックを開院。在宅医療を中心として尊厳死の実現に取り組んできました。それまで私が見てきた壮絶な死は、当たり前ではなかったのです。自然で穏やかな最期を迎える患者さんを数多く見るなかで、「尊厳死の根底にあるのは本人の意思だ」と確信し、リビング・ウィルの普及啓発活動に取り組むようになりました。

 

長尾クリニックの外観


尊厳死を実現するために必要なもの

尊厳死を実現するための基盤は、本人の意思です。人生の最終段階における医療の選択について、本人の意思を事前に表示しておく文書を“リビング・ウィル(LW)”といいます。現状、日本においてリビング・ウィルには法的担保がないため書式などに規程・制限はなく、自由に書くことが可能です。法的担保はないにしても、リビング・ウィルを文書として書き留めることは、本人の意思を実現するための大きな一助になります。

次の記事では、尊厳死を実現するために必要な具体的なプロセスをご説明します。

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