キャリア 2025.01.29
医療と芸術をつなぐ医師・稲葉俊郎さんが向き合う“いのち”とは
慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科 特任教授 稲葉 俊郎さん
科学技術が発達し、さまざまな制度や価値観が急速に変化する社会のなかで、“生きること”の本質に向き合い続け、既存の医療の枠組みにとらわれることなく活動している医師がいます。慶應義塾大学大学院 システムデザイン・マネジメント研究科特任教授の稲葉 俊郎(いなばとしろう)さんです。「芸術は人間の生きる喜び、医学と併せて包括的に扱いたい」と語る稲葉さん、今回はそのような思いに至った経緯について伺いました。
(Photo by Yuki Inui)
医療と芸術への思いが交錯した学生時代
医師を志したきっかけ
一般的に進路を考えるのは、進学先に関連して高校生の頃が多いかと思います。高校生の頃の私は、美術や音楽、文学、建築などに興味があったので、漠然とそのような分野に進もうかと思っていました。しかし、教師と進路について話をするなかで、これらを自分の仕事にするのは何か違うと感じていることに気付きました。芸術は趣味としては一生続けていきたいけれど、それによって収入を得ることには違和感を覚えたのです。自分なりによくよく考えた結果、医師であり画家でもあった父と祖父の存在がロールモデルとなり、医師になろうと決意しました。
私は熊本県で生まれ育ったのですが、大学は東京大学に進みました。きっかけは進路に悩んでいたとき、母親が気分転換にと東京に連れて行ってくれたことでした。原宿で洋服屋さんを見に行くのをメインにしながら、上野の美術館へ、そして東京大学へと散歩に行った際、突然“ここで自分が働いている”イメージが湧き上がってきたのです。私の場合は目標が明確化されると内発的な思いがあふれてくるため、一念発起して勉学に励んだ結果、1年の浪人生活が必要でしたが無事合格することができました。
“生きること”の本質に向き合う
期待に胸を膨らませて入学した大学でしたが、しだいに教科書をなぞるような学部の授業にどこか満たされないと感じるようになりました。東京大学への期待が膨らみすぎていたため、理想と現実のギャップに失望してしまったのです。あらためて自分の興味や関心を突き詰めてみると、帰結したのは幼い頃から考えていた“人間はなぜ生きるのか”という根源的な問いでした。そこで、“生きること”の本質についてもっと深く広く学びたいと思い、宗教学や哲学、倫理学、文化人類学などの授業に出席するようになりました。ちょうど臓器移植法の成立に関連して「脳死は人の死なのか」といった議論が活発になったり日本初の代理出産の実施が公表されたりするなど、科学技術と生命倫理の問題が噴出していた時期だったこともあり、大学院の授業やゼミなどにも参加して熱く議論を交わしました。生命科学系の専門家は哲学・宗教系などほかの分野の専門家とも積極的に交流し、現実社会と接点を持ちながら、答えが出ていない・合意が形成されていない問題に対して見解を提示していく必要があると感じていたのです。
また、哲学や思想を学ぶうちに、それらの1つの側面としての医療にも興味を抱くようになりました。たとえば、インド哲学からアーユルヴェーダやヨガなどのインド伝統医療を、老子や荘子の哲学から中国医学を……というふうに、東洋では哲学があってそこから医学が派生しているのではないかと感じたのです。一方、西洋医学では哲学が最初にあったというよりも技術の発展が先にあり、哲学よりも科学技術を重視する学問だと感じました。だからこそ知識や情報を得ることが中心になりますが、私が興味を惹かれていた伝統医学では哲学や思想などの表現型の1つとして技術があるように感じていました。そのため、学生時代は思想、宗教、哲学、文化、人類学などの一環として医学を勉強していました。同時に、医学部の正規の授業で学ぶ内容と自分の目指す医療との間に溝を感じ続け、そこから逃避するかのように、山岳部に入部して登山に明け暮れました。人間以上に、自然界からダイレクトに多くのものを学ぶ必要があると感じていました。それが後の私の医師としての歩みに影響を及ぼすことになっていったのです。
山岳医療から循環器を専門に
私が医学部を卒業した2004年は、ちょうど医師の新臨床研修制度が始まった年でした。それまでは卒業生の9割ほどが大学に残っていたのですが、自由に研修先を選択できるようになったのです。そのため、環境を変えるチャンスだと思い、研修先は長野県松本市にある相澤病院を選びました。大学時代は、冬山も含め北アルプスの山々によく登っていたのですが、滑落した仲間の搬送に付き添ってヘリコプターで相澤病院に行った経験がありました。病院も、そして当時院長を務められていた相澤 孝夫(あいざわ たかお)先生も、とても魅力的だと感じたことがきっかけでした。
相澤病院では、研修医として救急医療を中心に携わりました。もともと山岳医療や、山岳地からヘリコプターで緊急搬送される患者さんの対応などに興味があったからです。現場での対応を経験するなかで、心肺蘇生の技術やIABP(大動脈内バルーンパンピング)・PCPS(経皮的心肺補助)を併用しながら冠動脈治療を行う現場に感動し、救急医療の中でも特に循環器を専門にしたいと思うようになりました。相澤病院での研修も2年目となったある日、日本内科学会総会に出席すると、偶然、東京大学在学中にとても尊敬して親しくさせていただいていた当時東京大学循環器内科教授の永井 良三(ながい りょうぞう)先生が、隣の席に座ってこられて驚いたのです。近況をお話しするなかで循環器に興味があることをお伝えすると「心臓血管研究所付属病院のポストに空きがあるから行きなさい。あなたは大学に戻りアカデミックなことにも従事したほうがいい」と提案してくださいました。その後もメールでたくさんの学術論文を送ってくださるなどとても気遣っていただいたので、永井先生の熱意に背中を押されるようにして、それからの3年間は東京大学循環器内科の医局に所属し、心臓血管研究所付属病院で学びました。
在宅医療に携わるなかで起きた東日本大震災
3年間の冠動脈治療の研修を終え、その後、東京大学に戻り医学部附属病院で働きながら、大学院に進み博士課程で学びました。日々病院で患者さんの治療にあたっていましたが、ふと“病院に患者さんが来るのを待っている”ことに違和感を覚えるようになりました。在宅医療に携わりたいと思うようになった頃、東京大学循環器内科の先輩である武藤 真祐(むとう しんすけ)先生が訪問診療を専門に行う祐ホームクリニックを立ち上げたことを知ったのです。武藤先生に相談したところご快諾いただき、開院初年度からクリニックでの診療にも関わらせていただくことになりました。そのようななか起こったのが2011年の東日本大震災です。
震災発生直後、私が大学院生だったことで時間に融通がつけられる状況だったこともあり、現地に足を運び医療ボランティアに従事しました。実は震災の4年ほど前から、明治大学で原子力発電などの科学技術が社会に及ぼす影響についての勉強会(ダイアローグ研究会)を続けていたこともあり、原発事故の現場をこの目で見たいという思いもありました。そこで出会った方々とのご縁もあり、結果的にはその後1年間ほど、週末は被災地に赴いてお手伝いすることが続いたのでした。
被災地での能楽師との出会い――医療と芸術の融合へ
被災地での津波の被害は本当に甚大で、多くの方が流されて犠牲になっていました。あまり報道されていませんでしたが、棺桶がなかなか届かず不足していて、やむを得ずご遺体を野外に保管するより仕方ないような状況だったのです。私は医師として現地に赴きましたが、医療よりももっと根源的なニーズが満たされていない現実に直面して、“医師とはいったい何なのだろう”と思いました。
そのような状況のなかで、能楽師の方が海に向かって能の謡(うたい)を謡っておられる様子を目にしました。その姿はとても美しく荘厳で、声はまるで人間のものとは思えませんでした。お話を伺うと、その方はもともと一般のボランティアとして来ていたのですが、「私は今の状況ではこれが必要だと思ってやっている」とのことでした。能楽はもともと死者の鎮魂のための芸能で、日本では室町時代から能という芸能の形で死者をあの世に送って弔ってきたことを知り、観世流に弟子入りして稽古を始めました。
西洋医学では、診断によって病名がつけられた病気や数値化された検査データを扱いますので、数値化されないものは科学が扱えない、それはそのまま非科学的であるとされてしまいます。もちろん魂を鎮める、死者を見送るといった概念は、西洋医学の対象には含まれないため医学部では学びません。また、文化や芸術が人間の生きる喜びにつながり、時に絶望からの救いにもなり得るのであれば、これらを医学と併せて包括的に扱いたいと思いました。このような思いから、もしかしたら自分がやりたいことは西洋医学の範疇には収まらないのではないかと考えるようになりました。私は非科学ではなく、未科学だと思っています。
“体が馴染む場所”を求めて軽井沢へ移住
このような思いを抱きつつも、東京大学循環器内科では順調にキャリアを重ねていました。八尾 厚史(やお あつし)先生の指導の元に成人先天性心疾患の治療にも携わり、新しい分野のため専門医制度の設立の時期でもありました。この分野で一生やっていくのかもしれない……と感じていたのですが、結婚して子どもが生まれたことが転機になりました。東京は子どもが育つ環境としてはベストではないと思い始めたのが、2019年ごろのことです。そして、休みのたびにいろいろな場所へ旅に行きました。あるとき、教育関連の書籍の中で取り上げられていた長野県軽井沢町の軽井沢風越学園に興味がわき、家族で軽井沢を訪れました。まだ学校は開校しておらず立ち上げの時期だったのですが、直感的に「ここに住みたい」「ここに住む」と感じて、見学に行ったその日に家族で移住を決めました。東京大学への受験を決意したときと同じ感覚です。それから1週間もしないうちに東京大学に退職願を出し、2020年4月に軽井沢へ引っ越しました。軽井沢まで足を運んで、食事をしたり宿泊したりして時間を過ごすなかで「体が馴染む場所はここだ」と、頭ではなく体がこの場所を求めていると感じて決断したことを覚えています。理屈は後付けで、直感がすべてでした。
移住をきっかけに軽井沢病院に勤務し、2022年からは院長に就任しました。軽井沢病院では地域の障害者の方と一緒に“おくすりてちょう”を一つひとつ手作りして町に配布するなど、病院の中で医療と芸術、福祉を融合させることにチャレンジできました。しかし、医療というシステムの中で行えることに限界を感じ、いろいろと社会状況が変化しているなかで必ずしも医療という枠組みにこだわる必要はないのではないかと考えるようにもなっていました。ちょうど医師になって20年という区切りのタイミングでもあったことから、一度病院という組織から離れてみようと思い、2024年に軽井沢病院の職を辞することとなりました。
※稲葉さんのインタビュー後編はこちらのページをご覧ください