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医療と宗教が融合する台湾と日本の違い――いつか“看取りの家”をつくりたい

医療法人社団永生会 みなみ野病院 看護師・僧侶 玉置 妙憂さん

看護師であり僧侶である玉置 妙憂(たまおき みょうゆう)さんは、人生の最終段階にある人々のスピリチュアルペイン*に寄り添い、その人のお話にじっくりと耳を傾けるスピリチュアルケアを行っています。玉置さんがスピリチュアルケアを学んでいる台湾では、死にゆく人に宗教師が心のケアを行う体制が国レベルで整備されつつありますが、日本ではなかなか浸透しないのが現状です。台湾のスピリチュアルケアの現状、玉置さんが考える究極の終末期医療**、大切な人の死に直面している人へのメッセージなどを伺いました。

*スピリチュアルペイン:人生の意味や死への恐怖など、生死について考える際に生じる心の痛みや苦しみ。

**2015年に厚生労働省の検討会において人生の最終段階の医療へ名称変更。

※玉置さんが実践するスピリチュアルケアについてはこちらのページをご覧ください


日本で宗教的な心のケアがうまくいかない理由

日本では2011年に起こった東日本大震災をきっかけに、臨床宗教師*の育成が急ピッチで始まりました。これから医療現場に臨床宗教師がどんどん介入していく時代が来るかもしれない、という感覚を覚えましたが、実際にはあまり浸透していないのが現状です。また、仏教やキリスト教の病院では終末期医療に宗教を取り入れる取り組みを行っていますが、それもなかなか一般化していません。その大きな理由は、日本人の多くは無宗教であるためです。特定の宗教を信仰している人にとって宗教の病院は居心地のよい環境かもしれませんが、無宗教の人に対して、たとえば「イエスさまを信じましょう」と説いたところで、生まれるのは反発心だけでしょう。

では、日本人には信仰心がないのか、というと決してそのようなことはありません。病気や受験、出産など人生の一大事だと思ったとき、多くの人は神社やお寺に手を合わせに行きます。また、食事の前に「いただきます」と命をいただく感謝を口にするのも日本人くらいです。これは宗教心があるからではなく、人智の及ばない何かがあることを信じ、それに対して強い畏怖(いふ)の念を持っているためです。日本人の持つ信仰心は、むしろ他国よりあついのではないかと感じています。

死という現実に直面したとき、多くの人が最期は何かに祈りたくなります。そうした人々へスピリチュアルケアを行う意義はとても大きいと思うのですが、宗教に基づいたスピリチュアルケアではなかなか日本では広まっていかないでしょう。宗教という枠にはめるのではなく、人智を超えた何かを信じる気持ちに寄り添ったスピリチュアルケアであれば、日本人にとってもしっくりくると思っています。

*臨床宗教師:被災地や医療機関、福祉施設などの公共空間で心のケアをする宗教者のこと。一般社団法人 日本臨床宗教師会の認定資格。


台湾の現状――命の瀬戸際にある人のそばに祈りの部屋がある

終末期医療にスピリチュアルケアを取り入れる考えが浸透しているのが台湾です。仏教やキリスト教などの宗教が終末期医療に入り込み、さらに政府もその必要性を認めている印象を受けます。先日台湾で開催されたスピリチュアルケアの学会にも政府の要人が参加していましたし、スピリチュアルケアの資格を台湾全土で共通化する動きも出ています。

日本との大きな違いは、台湾は多くの人が特定の宗教を持っていることです。そのため、患者さんにも医療従事者にも宗教を取り入れることへの拒絶感がなく、宗教と医療がうまくコラボレーションできていると感じます。台湾の学会に参加した際に、国立台湾大学病院に新しくできた附属のがんセンターを見学する機会がありました。日本でいう国立のがんセンターに相当する病院です。驚いたのが、ICU(集中治療室)の隣に祈りの部屋があったことです。さらに祈りの部屋は、宗教ごとに分かれて造られていました。病院の人に聞くと、わざわざICUの隣にしたと教えてくれました。ICUにいるのは、生きるか死ぬかの瀬戸際にいる患者さんばかりです。家族としてはもっとも気持ちが落ち着かないときに、患者さんのそばに祈りの部屋が必要だということです。

医療側に拒絶感がないだけでなく、宗教側にも医療を否定しようという気持ちがないのも台湾の特徴だと思います。日本では「このお札を持っていれば、薬を飲む必要はない」などと言って、宗教が医療に取って代わろうとするケースをたまに見受けますが、台湾ではお互いを否定することなくうまく融合している印象です。スピリチュアルケアにおいて、医療と宗教は共存して初めて意味を持ちます。台湾はそのバランスが非常に上手だなと感じています。


玉置さんの考える究極の終末期医療

私は今、緩和ケア病棟で終末期にある患者さんに対してスピリチュアルケアを行っています。そうした患者さんと接していて思うのは、これから先も人生が続くかのように思ってもらいながら亡くなることが、究極の終末期医療なのではないかということです。医療者や家族など周りの人は、ご本人に何とかして大団円で人生を終えてほしいと願ってしまいます。死を受け入れてもらったうえで、やり残したことをやってもらい、家族との大切な時間を過ごしてもらい、そして最期は「よい人生だったな」と言いながら穏やかに人生を終えてもらうことを、知らず知らずのうちに目指してしまうのです。かつての私もそうでした。

しかし、私たち人間が何かをやろうと思うのは、これから先もまだ人生が続くと思うからです。ご本人からしたら、死にゆく準備をすることほど大変なことはないのではないかと思います。死を受け入れて穏やかに旅立ってもらうことで一番安心するのは、残された人なのです。

退院したら職場復帰したい、元気になって来年は世界一周したい――そうやって未来のことに思いを馳せながら、ある日うっかり亡くなることが、ご本人にとっては一番楽なのではないかなと思います。そのお手伝いとなるような終末期医療ができればよいなと今は考えています。

私自身の今後の目標は“看取りの家”をつくることです。昨年、ある1人暮らしの患者さんのスピリチュアルケアに携わる機会がありました。その人はどの施設にも入所できず、最後はただ1人、自宅で亡くなりました。グループホームや介護保険施設などに入るためのどのルールからも外れてしまったのです。訪問看護が入っていましたが、看護師が来るのは1日24時間のうちたった1時間、残りの23時間は1人きりです。

そのため、私はどのような人でも入ることができ、最期の時間を過ごせる家をつくりたいと思っています。マザー・テレサさんの“死を待つ人の家*”のようなイメージです。スピリチュアルケアが満ちあふれ、自然と亡くなっていくことを見守ることができるような場所がいつかできればよいなと考えています。

*死を待つ人の家:病院や道行く人々からも見捨てられて亡くなってゆく人を看取るため、マザー・テレサがインドに作った施設。


全てのことは形を変えていく――“諸行無常”を心の引き出しに

家族や大切な人の死に直面している人は「もっといろいろなことをしてあげればよかった」「あの時ああしていればもっと生きられたかもしれない」といった気持ちに陥ることがあるかもしれません。私自身もそうした深い池のような思いにはまることが多々ありました。そのようなときには、この世は“諸行無常(しょぎょうむじょう)”であることを思い出してください。この世に何1つとして同じ形であり続けるものはなく、全ては流れ、形を変えていくという意味です。人の命も同じです。過去に何をしていても必ず命は終わっていくのです。もちろん、よりよい未来に向けて、できる限りのことをするのは素晴らしいことです。しかし、もし理想の結果にならなかったときに自分自身を責めるのではなく「なるべくしてなったのだ」という考えを心の引き出しに持っていてほしいと思います。そして、苦しい気持ちになったらそれを引き出して「そうだ、この世は諸行無常だ。全ては流れて変わっていくのだ」と自分自身に言い聞かせ、心のしんどさを和らげていただきたいなと思います。

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