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「絶対に見捨てない。」という信念――武久敬洋先生の思いの原点

平成医療福祉グループ 代表 武久敬洋先生

全国におよそ26の病院(合計4,000床ほど)と複数の介護施設、看護・介護の専門学校を展開する平成医療福祉グループ。その始まりは37年前の1984年、徳島県に開院した博愛記念病院です。創設者の武久洋三先生とご子息の武久敬洋先生は二人三脚で同グループの成長を支え、「絶対に見捨てない。」を理念に慢性期医療*の質向上に尽力されています。その軌跡を間近で見つめ2010年から組織を管轄するグループ代表の武久 敬洋(たけひさ たかひろ)先生に、これまでのあゆみや思いを伺いました。

*本記事における「慢性期医療」は「回復期医療」を含みます。


動物に囲まれ、獣医師に憧れた幼少期

私が5歳の頃、父は徳島市に博愛記念病院を設立しました。幼い頃から親戚や周りの大人たちに「きっといいお医者さんになるね」と言われて育ったこともあり「いつか自分も医者になるのかな」と漠然と思っていました。

ただ周囲の期待とは裏腹に、子どもの頃は獣医師に憧れました。実家には常に猫が10匹以上、犬が数匹いて、動物に囲まれているのが当たり前の風景だったのです。「ムツゴロウ動物王国」を作った畑正憲さんも大好きでした。自宅にいたのは、主に父が拾ってきた犬猫たちです。当時は飼い主のいない犬猫が道端によくいて、そういう困っている動物を見ると父は必ず連れて帰ってきました。そんな家庭環境が影響したのだと思います。

 

博愛記念病院のある徳島市の街並み 写真:PIXTA


医療の道に進むと決めた日

高校生になってからは音楽や芸術関連、建築に強い興味を抱いたものです。そうして医療とはまったく違う道を思い描いていましたので、自ら「医師になろう」と思ったことは正直ありませんでした。

そんななかで医療の道に進もうと決めた日のことは今でも覚えています。高校2年で進路選択が迫っていたある日の夜、博愛記念病院のテニスコートで父と一戦を交えました。その休憩中にふと「やっぱり俺、医者にはなりたくないな……」と口にすると、父は「……お前と一緒に仕事するのが夢だったんや」と言うのです。目の端にはうっすらと涙がにじんでいるように見えました。そんな父の姿を見て、いろいろな思いが頭の中を駆け巡りました。そして最終的に「父の夢をかなえるために医者になるのも悪くないか」と思い至ったのです。

 

大学生時代の武久先生(写真左)と武久洋三先生


即戦力になりたいと整形外科へ

2005年に医学部を卒業後、平成医療福祉グループに戻るまでの5年間は整形外科の研修医として2つの病院に勤めました。整形外科を選択した理由は、早い段階で実践的な診療を任せてもらえる分野であり、高齢者医療に携わる者として習得しておく必要性を感じたからです。私が医師免許を取得した時に父は60歳を超えており、そう遠くない将来グループの病院に戻ることを意識していました。その時に即戦力になれるよう修行せねばと思ったのです。実際、2010年にグループへ戻った際に整形外科の診療対象となる患者さんはとても多く、リハビリテーションとも近しい分野なので当時の選択は間違っていなかったと思います。


「絶対に見捨てない。」――医師としての信念

医師としての価値観を形成したターニングポイントはいくつかあります。

1つ目は先ほど父が捨てられた犬猫を拾ってきたという話をしましたが、その原体験が私の人生観に大きな影響を与えています。父は生きている動物だけではなく、車にひかれて道端に放置されている原形をとどめていないような状態の動物であっても「かわいそうだから」と素手で優しく拾って静かな場所に移動させていました。もちろん犬猫だけを助けていたのではなく、なんらかの助けを必要とする人の全てに必ず関わってなんとかしようとしていました。そんな姿を間近で見ていて生まれたのが「絶対に見捨てない。」という当グループの理念です。この考え方は私の医師としての価値観の根幹を支えるものでもあります。

 

 

2つ目のターニングポイントは研修医時代に“反面教師”となる医師に出会ったことです。その医師は救急外来に運ばれてきた中年の女性を、精神障害がある、お風呂に入っていない匂いがする、生活保護を受けているという要素を理由に、ろくに診察もせずに返してしまいました。驚きと悔しさを感じながらも、当時の自分はただそれを見ているしかできませんでした。この時の思いは今でも忘れられません。その患者さんは翌日別の医師の診察により、重症の横紋筋融解症(骨格筋細胞の壊死<えし>・融解により筋細胞内成分が血液中に流出した状態)と診断され入院治療を受けることができたことがせめてもの救いです。この経験があって以降、どんなに言いにくい相手であっても、患者さんに対して間違えたことをする医師に対しては必ず意見して正そうとするし、自分自身も一度たりとも患者さんを見捨てるようなことはしないと心に決めました。

 

3つ目は整形外科医として駆け出しの頃のできごとです。化膿性脊椎炎(脊椎の細菌感染症で、糖尿病患者さんに多く発症する)を患った90歳代の男性を担当しました。徐々に体が衰え食事も喉を通らなくなったため、内科医に高カロリー輸液による管理を依頼したのですが特に理由もなく断られてしまったのです。そこで自ら栄養管理について調べ、父などにも相談しながら高カロリー輸液のメニューを組みました。最終的に患者さんは「最後は自宅で過ごしたい」と希望され、地域連携の担当者と話して在宅医療にまでつなげた、という経験があります。整形外科という枠に捉われず、専門や範囲を超えて1人の患者さんのために動くこと。これが自分の慢性期医療を体現する姿勢に通じていると思います。

 

写真:PIXTA


グループの成長を間近で感じてきた

1984年の博愛記念病院の開院後、徳島県内から淡路島、山口、大阪、そして関東へと徐々にグループの病院が増えていきました。子どもの頃から職員の慰安旅行などに同行することが多々あり、職員の方々とは交流がありました。また代表として奮闘する父の姿はもとより、グループが成長していく過程を近くで見ていました。そのおかげか、自分がグループを引き継ぐことに対してプレッシャーを感じたことはありません。今思えばそれはプレッシャーに負けないための防衛本能だったのかもしれませんが、不思議と「きっとできる」という自信がありました。

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