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介護保険制度が成立した経緯――目指したのは介護の社会化と自立支援

上智大学総合人間科学部社会福祉学科 教授 香取照幸先生

2000年の介護保険制度創設から、20年が経ちました。まだ“介護”という言葉もなかった1980年代から構想され、その後の急激な高齢化を見据えて構築された介護保険制度。当時はどのような時代だったのか、創設までにどのような経緯があったのか――。介護保険法の制度設計と介護保険制度の改正を担当された香取 照幸(かとり てるゆき)先生(上智大学総合人間科学部社会福祉学科 教授)にお話を伺いました。


“介護”という言葉もなかった時代

介護保険制度がスタートしたのが2000年。その前の10~20年、すなわち1980~1990年代の日本は、いよいよ本格的な高齢社会に突入するという時期で、1980年に9.1%だった高齢化率(総人口における65歳以上の人口)は、1995年に14.5%を超えました。

高齢化率が7%を超えると“高齢化社会(aging society:高齢化しつつある社会)”、14%を超えると“高齢社会(aged society:高齢化した社会)”と定義されます。日本では高齢化率が7%から14%に到達するのに24年(1970から1994年まで)かかりましたが、これは他国と比して非常に短い。たとえばフランスは115年、英国は47年、比較的短いドイツでも40年かかっています。他国では何世代もかけて高齢化が進んでいたのに対し、日本では1世代もかからずに非常に速いスピードで高齢化が進んだ。これはつまり、自分の親が過ごした高齢期の生活と、自分が高齢になって迎える生活が大きく異なることを意味します。

 

今でこそ「高齢期をどう生きるか」「高齢者医療」といった話をよく耳にしますが、1980年代当時そのようなテーマが議論されることはほぼありませんでした。社会保障政策上でも高齢化は当然問題になっていましたが、目の前で起こっている事象に対して施策がまったく追い付いていなかった。“介護”という言葉もなかった時代です。

そのような時代の象徴とも言えるのが、介護を必要とする高齢の方が自宅で寝たきり状態になってしまう現象と、入院治療の必要がない高齢の方が長期的に入院させられる“社会的入院”です。当時の介護サービスは、誰もが受けられる一般施策ではなく福祉制度でした。所得が少なく自宅で家族が親の面倒を見ることが難しいケースにのみ適応される“措置制度”だったのです。そのため、一般的な家庭で親の介護が必要となった場合、全額自己負担で施設に親を預けるか、病院に入院させなければなりませんでした。

 

写真:PIXTA


日本に不足していた“高齢者福祉”

急激に高齢化が進む日本で、この先どうなるか――。国は真剣に考え始めました。当時起こっていた議論の中心は「入院治療の必要がない人を入院させて薬漬け・寝たきりにしている病院が悪い」という、いわゆる“老人病院たたき”でした。政策としては医療費適正化を目指して高齢者医療の診療報酬を削るなどしたのですが、一向に問題は解決しなかったのです。

 

その頃厚生省(現 厚生労働省)にいた私は1990年に埼玉県庁に出向し、老人福祉課長を務めることに。そこで、あらためて高齢者の介護問題について考えました。当時の埼玉県は高齢化率が非常に低く、在宅福祉施策が進んでいなかったのです。

いろいろと調査するうちに「問題の本質は医療(だけ)ではない」と思い至りました。そして、当時埼玉県知事だった畑 和(はた やわら)氏と共に福祉先進国のデンマークへ赴き、地域で展開されているさまざまな在宅サービス、高齢者施設(プライエム)で行われているサービスの内容や費用、施設を解体して高齢者住宅に改修している様子などを視察。日本の状況と照らし合わせて考え、要は日本には高齢者福祉が大幅に不足しているのだということに気付きました。実際、当時すでに北欧では高齢者医療費と福祉費の割合がほぼ1:1であったのに対し、当時の日本は8:1。高齢者福祉への財源投入が明らかに少なかった。医療サイドが不足している福祉サービスの肩代わりをしている。その象徴が“社会的入院”であり、ニーズに合わないサービスが寝たきりの高齢者を生んでいる。措置制度ではなく、社会的に介護を支える仕組みが必要だと確信したのです。

 

デンマークの街並み 写真:PIXTA


“介護の社会化”と“自立支援”を指針にして

介護サービス提供体制の構築にあたり、2つの指針を掲げました。介護を社会化する(社会的に介護を支える)ことと、自立支援です。経済的な背景など関係なく誰もが要介護になる可能性があるということを前提にして、介護サービスは普遍的なものとして提供されなければいけない。家族が要介護になったとしても、本人や家族がそれまでの生活を継続できるようにしなければならない。その意味で、介護とは医療と同じように“人の生活を支えるもの”であり、本人ができるだけ自立した生活を送れるような支援が必要だと考えました。

必要なときに必要な介護サービスを受けられるよう制度的に保障するために、措置制度ではなく、国民自らが拠出した財源を元に権利として介護サービスを受けられる社会保障としての介護保険制度が必要ということになったのです。


なぜ措置制度ではいけないか

公助である措置制度は、生活に困窮した人は国が責任を持って助けるという立派な制度です。しかし、現実にはそのように機能していない場合も多い。措置制度には枠組みがあり、判定するのも国ですから、その枠に入らない人は救済を受けることができません。しかも、措置制度では平等性が優先されるためニーズ志向ではなく、救済される側の主体性や権利は考えられていません。たとえば、これは当時実際に行われていたことですが、措置制度で食事を提供するとしたら、全員に同じ量の食事を与え、食べ残しを集めてからお代わりを配る。あるいは、おむつ交換は定時交換が基本で、今は当たり前の随時交換は「人によってサービスの量が異なって不公平」ということになる。このように、措置制度というのは“貧しい時代”に限りあるリソースをいかに平等に分配するか、ということを考えて作った“配給”の仕組みなのです。平等性を優先する措置制度では個々のニーズに合わせたサービス提供が難しくなってしまうのです。


“現場の人々”と作り上げた介護保険制度

介護保険制度サービスの中には、地域密着型介護予防サービスや夜間介護など、現場の実践から生まれたものが多くあります。たとえば、小規模な共同生活の場である“グループホーム”という形態は措置制度で介護を提供していた時代にはなく、「認知症の人は少人数単位で共同生活の中で個別にケアする方法でないと状態が悪化する」という現場の実践の中から生まれ、制度からはみ出した自主事業として数少ない施設が独自で行っていたものです。介護保険の制度設計は、こうした現場の声や実践を参考にして進めていきました。保険制度をつくる過程にはもちろん役人や政治家も多く関わりますが、実際には“現場の人々”と作り上げた制度なのです。


高齢化が進むなかで将来も機能する制度を目指して

当時は“子どもが親の面倒を見るべき”というのが社会通念で、介護を社会化するという指針に対して一部の政治家から「親不孝者を生む」という批判を受けたこともありました。そのため多くの議論を重ねました。社会保障制度によって家族の役割はなくならない、家族の関係を壊すこともないと。むしろ良好な家族関係を維持するために必要な制度なのだと。親の介護で仕事を辞めざるを得ない、それにより収入が激減する、といった過剰な負荷がかかれば、良好な家族関係を維持することは困難になり、その家庭が崩壊してしまう可能性さえあります。ですから介護を社会化し、必要なときに必要なサービスを受けられるようにしようと説得しました。急激な高齢化が進む日本において、20年、30年先も機能する介護保険制度を目指したのです。

*次の記事では、介護保険制度の現状の課題についてご説明します。

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