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地域医療とは、大切な人を幸せにする医療。よりよい地域医療の実現を目指して――小豆畑 丈夫先生の歩みと思い

医療法人社団青燈会 小豆畑病院 理事長 小豆畑丈夫先生

茨城県那珂市で医療法人社団青燈会 小豆畑病院の理事長・院長を務める小豆畑 丈夫(あずはた たけお)先生は、救急医としてのキャリアを持ちながら、現在は在宅と救急の連携を推進するべく精力的に活動されています。小豆畑先生のあゆみと現在の思いについて、お話を伺いました。


地域の人々を守るべく奔走する父に憧れ、自然と医師を志した

当院は、1980年に私の父である小豆畑 節夫(あずはた せつお)によって開設されました。当時の那珂市エリアには入院設備を整えた病院が一つもなく、父は地域の方々の健康を守る病院をつくろうと決めたようです。

 

開設当時、私は10歳でした。それまで父は勤務医で、年に2回ほど母・弟とともに4人で家族旅行するのが習わしだったのですが、開業してからの父は多忙を極め、家族旅行の行き先は東京などの近場が増え、さらに、父は旅行の合間を縫って病院に戻り診療をするようになりました。学校の行事にも、父はめったに参加できませんでした。

そのようななかで育ち、「うちのお父さんはほかの家と何か違うな」などと思いながら、しかし手術着を身にまとい患者さんのために奔走する父の姿は、なぜだか少し眩しかった。憧れのような気持ちがあったのでしょう。決して「医師になれ」とは言われたことはなかったのですが、いつのまにか自然と医師を志していました。

 

中学校に上がるまでは塾にも通わず、剣道やエレクトーン、絵画といった習い事に熱中していましたが、中学1年の頃に“将来は医師になる”と決めました。両親に「医学部に進むにはたくさん勉強しなければいけないから、塾に行かせて」と頼んだ記憶があります。

「外科医になって、いつか父と一緒に手術をしたい」子どもながらに、そんな願望を抱いていましたね。

 


外科医を目指しながらも、救急医療を学ぶチャンスを得る

高校卒業後、日本大学医学部に進学。剣道部に入り、仲間たちと切磋琢磨しながら、充実した毎日を過ごしました。卒業後は外科系に進むと決めていたのですが、ちょうど在学中に日本大学医学部板橋病院に救命救急センターができ、私は初めて“救急医療”という概念に出会います。当時の系統講義で救急医学を学んだことはなく、それまで教わってきた“臓器別”の医療とは異なる、体全体の知識を要する救急医療の世界にがぜん興味が湧きました。

とはいえ、外科医になるという目標は自分の中で絶対的なものだったため、救命救急センターの部長であった林 成之(はやし なりゆき)教授に相談し、「外科医になりたいので2年後には外科に行く予定ですが、研修医の2年間は救命救急センターで働かせてもらえませんか」という申し出を許していただいたのです。

 

救急医療を学ぶと決めたとき、周囲には「大丈夫か」と心配されました。当時はまだ救命救急センターができて間もなく、結局は外科医になるのに寄り道のようなことをして変なやつだと思われたのかもしれません。しかし私はあまり人の話を聞かないもので、「これをやりたい」と思ったら突き進んでしまうのです。


現場で感じた課題を解決するべく病院経営の道へ

2年間、研修医として救命救急センターで必死に勉強し、予定どおり第一外科(現在の消化器外科・小児外科・乳腺外科)の道に進み、がん診療を中心に経験を積みました。その後、日本大学医学部大学院在学中に米国アイオワ大学病院 小児外科への留学のチャンスをいただき、子どものがん遺伝子研究に従事しました。その後、やはり大人の消化器外科をやりたいと思ったので大学の臓器別診療科への変更に合わせ消化器外科に進みました。そして、大学の要請で、2006年からの10年間は日本大学医学部附属板橋病院 救命救急センターで急性腹症や外傷などの手術を中心に忙しい日々を過ごしました。

 

留学中、米国アイオワ大学病院にて

 

小豆畑病院に戻ってきたのは2016年です。戻った理由としては、長らく大学での仕事をするなかで徐々に“自分で病院を経営すること”が魅力的に思えてきたことと、記事1でもお伝えしたように、救命救急センターで診る患者さんの年齢層や病気が変化したことで、解決するべき課題が見えてきたことがあります。

 

 

小豆畑病院に戻ると決めたとき、それまで共に多くの手術を手がけてきた河野 大輔(かわの だいすけ)先生と緊急麻酔で助けてくれていた中村 和裕(なかむら かずひろ)先生も一緒に小豆畑病院へ来てくれました。また、かつて日本大学板橋病院の救命救急センターで指導いただいた丹正勝久(たんじょう かつひさ)先生にもお声を掛け、現在、当院の名誉院長を務めてくださっています(2020年4月時点)。皆さんご家族を連れて茨城県に住んでくださっていて、決意の大きさを感じますね。このようなご縁には感謝の気持ちでいっぱいです。


外科医としての喜びと、現在の思い

これまであらゆる患者さんを診てきました。外科医としての醍醐味は“自分の手で患者さんを治している”と感じられることかもしれません。その反面、手術がうまくいくかどうか、その責任は非常に重いものです。無事に手術が成功し、「この患者さんはもう大丈夫だ」と確信できる瞬間、一外科医としての喜びはひとしおです。

 

現在は、小豆畑病院の理事長・院長としての業務にも多くの時間をあてています。2017年には照沼 秀也(てるぬま ひでや)先生と共に“日本在宅救急研究会(現 日本在宅救急医学会)”を発足し、精力的に活動を続けています。

日本在宅救急医学会の活動を始めようと思ったきっかけは、2016年の日本救急医学会学術集会、すなわち国内で有数の救急分野における学会において、“在宅医療”というキーワードが登場し、社会の変容とニーズを感じたことです。つまり、それまで分断されていた救急医療と在宅医療の分野が連携することの重要性は高く、そのために誰かが動かなければいけないと思ったのです。

*日本在宅救急医学会の活動については、記事1をご覧ください。

 

日本在宅救急医学会での活動の様子(前列右から2番目:小豆畑先生、3番目:照沼秀也先生)


在宅医療と救急医療のさらなる連携を目指して

 

現在力を注ぐ“在宅医療と救急医療の一つの病院連携”の取り組み、日本在宅救急医学会の活動については、まだまだやるべきことが多く、達成感を味わうほどの域には到達していません。しかし確実に社会は変化しており、その中で私たちが果たすべき役割はあるはずです。そのため、今後も自院の経営にとどまらず、地域医療を支えていくために、そして在宅医療と救急医療が本当の意味で連携できるよう取り組んでいきます。


地域医療とは、“大切な人を幸せにする医療”

“地域医療”という言葉があります。小豆畑病院に戻り地域医療に携わるなかで、自分たちの人生をかけて取り組むべき“地域医療”とは、一体何なのだろうと真剣に考えました。さまざまな資料を調べてみましたが、納得できる答えがなく、これは自分で明確な答えを見つけるしかないと思いました。

 

私の出した結論は、“地域医療とは、大切な人を幸せにするための医療である”ということ。家族や友人が病気になったりけがを負ったりしたとき、最初に接するのはおそらく地域医療であり、私たち医療従事者には患者さんやそのご家族が幸せであるように適切な医療を提供する使命があります。さらに、前提として、地域医療と一言で言っても、地域によってそのあり方は異なるということ。たとえば医療過疎地域における地域医療と都心でのそれでは、住民の人口構成も医療資源の状況も違うでしょう。

このような前提に立てば、よい地域医療は簡単に実現できるものではないと思われます。しかし時間が掛かってもどんなに難しくても、私はこれからも皆と協力し、人々を幸せにするための地域医療をつくるべく邁進していきます。

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