病院運営 2020.06.11
急性期から慢性期まで、100年先もずっと地域を支える病院であり続けたい――志田 知之先生のあゆみ
志田病院 理事長兼院長 志田知之先生
佐賀県鹿島市で地域密着の医療を続け、地元の方たちの健康と安心を支えてきた医療法人 天心堂 志田病院。1996年に3代目理事長兼院長を継承した志田 知之(しだ ともゆき)先生は、さまざまな新しい挑戦で病院機能を大きく進化させてきた一方、先代が大切にされていた患者さん一人ひとりに寄り添う医療を“継続する”ことにも尽力されています。30歳で同院を継承した志田先生に、これまでのあゆみと将来への思いを伺いました。
地域医療に尽力した父の姿に憧れて医師を目指した
私が小学生の頃、父が2代目の理事長兼院長として当院を継承しました。その翌年に病院を建て替えたのですが、新しい病院には手術室もあり、外科の医師だった父が手術着に着替えて手術室へ入っていく姿をよく見ていました。そういった姿を見て、「自分も医師になる」と自然と考えていました。医師以外の道を考えた記憶はないです。両親も、私が医師になることを期待していたと思います。
父は1人で外来と病棟の診療を担当し、夜中に駆け込んで来るどのような患者さんも断らずに受けていました。たとえば、喘息は今でこそ薬でコントロールできますが、当時はまだ十分な治療が難しく、夜中にゼイゼイと呼吸困難に陥りながら来院される患者さんが結構いらっしゃいました。いつも父は慌てることなく、患者さんやご家族の不安を和らげながら全力で対応していました。ですから、地域の方たちにとても感謝され頼られていました。そのことも、私が医師という職業に強い憧憬の念を抱いた大きな理由だったと思います。
「自分が父の遺志を継ぐしかない」と覚悟を決めた
佐賀医科大学(現・佐賀大学医学部)を1990年に卒業し、父と同じ外科に入局しました。5年ほど臨床経験を積んだ後、大学院へ進んで病理の研究をしていたとき、父が病気で1か月余りの闘病ののちに亡くなりました。悲しむ暇もなく、誰が病院を継承するのかという大問題に直面しました。それまでは父が全ての診療を行っていたので、すぐに後継者を決めないと入院している患者さんや外来に来られている患者さん、訪問診療で伺っているご家庭にも迷惑がかかります。
当時、私は週に1回、外来診療の手伝いに帰ってきており、当院の継続を放棄するわけにはいかないと思いました。しかし一方で、父の跡を引く継ぐことに大きなプレッシャーを感じたのも事実です。医師6年目の自分に、すぐに父と同じレベルの診療を行うことは困難です。私の兄も医師ですが、「病院はお前に任せる」と言われ、「それなら自分が父の遺志を継ぐしかない」という覚悟ができました。自分の与えられたものに全力で取り組みたいという思いが芽生え、大学院を中退して、1996年に理事長兼院長を継承しました。
若くして継承したことで思いきり前向きに挑戦できた
理事長兼院長を継承した直後は、とにかく父の行ってきたことを継続することに必死でした。しかし、つらいと思うことはありませんでした。むしろ、新しい挑戦の毎日に大きなやりがいを感じていました。外来や病棟、訪問診療先で、患者さんたちが若い私を医師として頼ってくださる。また、病院の医療チームのリーダーとして職員からも頼られる。そこに大きな責任を感じながら、同時にモチベーションの向上にもつながっていったのです。
経営面は分からないことばかりでしたが、ハードルを一つ一つ乗り越え、成功体験を重ねるうちに意識が変わっていきました。小さいながらも一つの病院、一つの法人の方向性を自分で考えて職員に伝え、みんなで一緒にやっていくという経営者としての役割が、思った以上に自分には合っていたようです。私より上の世代の先生方からは、「志田先生は若いときに継承したから、思いきりいろいろことができたんだよ」とよく言われます。確かに30歳でスタートしたからこそ、怖いもの知らずで、何でも前向きに挑戦できたようにも思います。
私を支え、導いてくださった2人の恩師
若い頃からずっと、私を支えてくださる先輩の先生方が周りにいたことも大きかったです。もっとも身近な恩人は、社会医療法人祐愛会 織田病院 理事長、全日本病院協会副会長の織田 正道(おだ まさみち)先生です。織田先生は、ご自身も30歳前後で実家の病院を継承された経験から、私が戻ってきたとき、真っ先に「分からないことがあったら何でも聞いて」と声をかけてくださいました。その後、当院におけるあゆみの節目節目で貴重なアドバイスをいただきました。
病院機能評価*の受審をすすめてくださったのも織田先生でした。その結果、2006年度に病院機能評価(ver.4)の認定を受け、以来、2度の更新認定を受けています。当院の根本的なシステムや仕組みが段階的によくなったのは、このおかげだと思っています。織田先生には個人的に育てていただいたとともに、鹿島市で一番近い連携先の病院として今でも大変お世話になっています。
池端 幸彦(いけばた ゆきひこ)先生も、私にとってかけがえのない恩人のひとりです。最初の出会いは、2013年3月に日本医師会館で開催された在宅医療支援フォーラムでした。私は地区医師会の代表として参加しており、そこで池端先生のご講演を聴いて強く感銘を受けたのです。池端先生は、日本慢性期医療協会副会長、福井県医師会長をはじめ、医療界で重要な役職を歴任されている一方で、地元では地域に根差した“かかりつけ病院”の院長として、ずっと訪問診療を続けていらっしゃいます。ご講演では訪問先の写真をスライドで紹介しながら、地域医療、在宅医療の実際を愛情豊かにお話しされました。それを聴講し、「この先生は地域医療、在宅医療の現場を本当に大切にされておられるのだな」と感動したのです。私は池端先生のところへすぐにご挨拶に行って、「当院の研究発表会でご講演していただけないでしょうか」とお願いしました。池端先生は快諾してくださり、数か月後にそれが実現しました。その後、さまざまな場面で声をかけていただき、いろいろな相談にも乗ってくださいました。2015年に地域包括ケア病床を導入する際も、背中を押してくださったのは池端先生でした。現在、私が日本慢性期医療協会の理事を務めさせていただいているのも池端先生のおかげです。
*病院機能評価:公益財団法人日本医療機能評価機構が実施している“病院の質改善活動を支援するツール”
いつも職員と一緒に困難を乗り越えてきた
志田 知之先生(左)、地域包括ケア病棟看護師長を務める松浦 美香(まつうら みか)さん(右)
2000年以降、当院は病床機能を目まぐるしく転換しながら運営してきました。こうしたことが実現できたのは、全職員の努力の賜物です。回復期リハビリテーション病床を導入したときも、最初は皆に少なからず戸惑いがあり現場はかなり混乱しました。病棟看護師と一緒に私も勉強しながら、手探りで進めてきたというのが正直なところです。さらに大きな挑戦だったのは、地域包括ケア病床の導入です。さまざまな困難を職員一同の頑張りでクリアしてきたことで、その後の増床に結びついたと思っています。
さらに当院は2000年当時から、入院している患者さんに身体拘束しないことを徹底してきました。これも職員の努力なしには実現できません。身体拘束を実施されていた患者さんがリハビリテーションを目的に当院へ転院して来られた場合でも、よりよい対応をいつも医療・介護のスタッフが一緒になって考えてきました。身体拘束をしないためにはどうしたらよいかという方向から考える習慣が、当院の職員は自然に身についていることを誇りに思っています。
今後は後継者につなげることも考えていきたい
地域包括ケアシステム完成の目標年度である2025年には、当院は創立100周年を迎えます。ここで病院および法人として、今までの100年を振り返る事業を行う予定です。ただし、100周年はあくまで通過点であり、その先の50年、100年もずっと地域を支える病院であり続けたいと考えています。そのために、今後は後継者につなげていくことを考えて、しっかりとした基盤づくりに努めます。
今後ますます高齢化が進み、人口が減少すると予測されるこの地域で、当院は高度急性期医療以外の部分を全て担うつもりで運営しています。高齢者救急や予防医療から慢性期医療まで、地域の人々の人生を引き受ける覚悟で、地域の皆さんと長くお付き合いできる病院であり続けたいと思っています。