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医療を取り巻く“倫理”の諸問題とその背景にあるもの

東京大学大学院人文社会系研究科 死生学・応用倫理センター上廣講座特任教授 会田薫子先生

医療の現場で、“命”の問題は常に隣り合わせです。これまでにも、脳死を死とするのか、受精卵を使う再生医療は許されるのか、といった倫理的な議論がたびたび起こりました。実際にどのようなことが議論となったのか、その背景にある思想・文化はどのようなものか、東京大学大学院人文社会系研究科 死生学・応用倫理センター上廣講座特任教授の会田 薫子(あいた かおるこ)先生にお話を伺いました。


医療を取り巻く“倫理”の問題

“死”の定義について――脳死は死か?

医療技術がここまで発達する以前は、死の定義は自明のものでした。しかし、20世紀後半、医学の発展によって人工呼吸器が導入されたことで、死を再定義する必要性が出てきました。すなわち、脳死(脳全体の機能が不可逆的に失われた状態)を死と捉えるのか、という問題です。西洋では一般市民の反発は、宗教的に脳死を容認しない人を除けばあまりなく、脳死=死という考えが浸透していますが、日本では脳が機能していなくても心臓が動いているなら死ではない、という意見を持つ人が少なくありません。

脳死の議論は、臓器移植の問題につながります。脳死は死ではないと定義した場合、脳死ドナー(臓器提供者)から臓器を摘出することはできないと考えられています。それは、まだ生きている人から心臓などの生命維持に必須の臓器を摘出することであり、つまり、臓器摘出が殺人を意味してしまうからです。

日本では「脳死は死」を前提とした改正臓器移植法(2010年施行)のもとで脳死ドナー数は近年漸増してきましたが、それでも最新のデータで年間100件にも満たないほどです(2019年日本臓器移植ネットワーク)。世界的にみて、脳死ドナー数は非常に少ないといえます。

その代わりに生体ドナーからの臓器提供が多く、健康な体を傷つけて、2つの腎臓のうちの1つや肝臓などを部分的に摘出する手術が行われているのです。腎臓や肝臓といった臓器をレシピエント(移植患者)に提供するドナーには当然ながら健康を害するリスクが伴い、最悪の場合には死亡する可能性もあり、実際に亡くなった生体ドナーもいます。このような日本の現状は、西洋の倫理観から見るととても奇異に映ることでしょう。

 

生殖補助医療について

1978年に英国で世界初の体外受精児、いわゆる“試験管ベイビー”が誕生し、大きな話題となりました。当時、この技術の開発者であるロバート・G・エドワーズ博士らに対し、称賛とともに批判の声も上がりました。批判的な意見の多くは、生命の誕生はキリスト教などでいうところの“神の領域”であり、人間が踏み込むことは許されるものではないというものでした。しかしその後、生殖補助医療は徐々に一般化され、2010年には体外受精技術の開発の功績によりエドワーズ博士がノーベル医学生理学賞を受賞。現在では通常の医療としてすっかり浸透しました。実際、日本産科婦人科学会の最新データによると、2018年に日本で誕生した子どもの16人に1人は生殖補助医療で生まれています。このように、生殖補助医療で生まれる子どもの割合は年々増加してきています。

生殖補助医療の分野で起きたこのような議論は生命倫理の特徴的な議論の1つです。新しい医療技術が登場したとき、果たしてそれを使うことが許されるか否か、学際的な議論が必要とされることが少なくありません。

 

写真:PIXTA

 

そのほかにも生殖補助医療の分野では、体外受精で受精卵がいくつかできたときにどれを子宮に戻すのか、出生前診断で染色体の異常があると判明したときに人工妊娠中絶をするのかという“命の選別”に関する倫理的に判断が難しい問題なども議論されています。

 

再生医療について

現在、世界における再生医療の研究は、ES細胞研究とiPS細胞研究に大きく二分しています。

ES細胞は受精卵を材料として樹立されるので、“人間になれるはずの細胞”を壊すことに対して、生命の始まりを犠牲にする行為だとの批判があります。一方、その後に登場したiPS細胞は、ES細胞と同様に「万能細胞」と呼ばれ、さまざまな細胞になる可能性を持ちながら、皮膚などの体細胞からつくり出せるため、ES細胞研究においてもっとも深刻とされる、胚の破壊という倫理的な問題を回避できるようになりました。

日本政府は、京都大学iPS細胞研究所の山中 伸弥(やまなか しんや)先生が2012年にノーベル医学生理学賞を受賞したことを背景に、iPS細胞を活用した医療技術の発展に力を注いできました。しかしながら、実用化に向けては技術的な課題が残っている現状です。

 

人生の最終段階における医療(エンドオブライフ・ケア)について

長らく医療の目的は“生存期間の延長”とされてきて、医療技術の進展に伴い、人工呼吸器や胃ろうなど、さまざまな生命維持治療が実現しました。しかし、これらの技術は人工的な延命を実現しても、そうすることが必ずしも本人の幸せにつながらないばかりか、本人の尊厳を損なうケースが多く発生したことで、人生の最終段階における医療(エンドオブライフ・ケア)*の議論が起こったのです。

ここで1つ注意を要するのは、生命維持治療すなわち延命医療は、それ自体は価値中立的ということです。人工呼吸器などを使って医療を提供していても、本人の快復の見込みが失われ、もっぱら生存期間の延長のために行われるようになった段階で、この医療行為の目的は“延命”になるのですが、延命医療の医学的な意味は肯定的でも否定的でもありません。そのため、医療者側から患者さん側に向かって価値づけして話をすることは適切ではありません。価値づけは患者さん側がすべきものです。

ところが通常、延命医療というと否定的に捉えられることが多く、社会の中で延命医療を否定的に認識している人が多いことが伺えます。しかし、延命医療の意味づけはあくまで一人ひとりの当事者の視点からなされるべきです。

 

さて、延命医療の価値は中立的ですが、従来、医学・医療は生存期間の延長を目指してきたので、延命医療を肯定的に捉える人にとっては問題となりませんでした。一方で、延命医療を否定的に捉える人にとっては、現代の医療において大きな課題となったのです。 “生存期間をただ延長するためだけの医療行為は本人と家族にとって必要か”、“延命医療の末、自尊感情が保てない状況で生かされることが本人にとって幸せなのか”ということです。その結果、本人の幸せに貢献しない医療は終了することも選択肢とすべきという考え方を基盤として、人生の最終段階における医療の意思決定に関わる日本で初めてのガイドラインが2007年に厚生労働省により発表されました。その後、さまざまな医学会でガイドラインが発表され、現在では、延命医療を行わないことと、いったん開始した後でも終了することは、医療における選択肢の1つとなっています。延命医療の終了に関しては、多くの医師が法的問題を懸念してきましたが、厚生労働省ガイドラインの発表後は、ガイドラインに沿って延命医療を終了して看取った医師に対する法的問題はまったく起きていません。

*人生の最終段階における医療(エンドオブライフ・ケア):従来、“終末期医療”と呼ばれていたもの。厚生労働省が2015年に、最期まで尊厳を尊重した⼈間の生き方に着⽬した医療を目指すことが重要であるとの考え方に基づき、“人生の最終段階における医療”という用語へ更新した。

*人生の最終段階における医療とケアについては、次の記事をご覧ください。

 

安楽死について

安楽死というと、通常は積極的安楽死を指します。これは、医師が致死量の薬物を投与して患者さんの命を終わらせるものです。類似のものに、医師が直接投与するのではなく、医師が致死薬の処方箋を書き、患者さんが自分で薬物を購入し、その薬物を使って本人が自ら命を終わらせる“医師による自殺幇助”があります。

積極的安楽死を容認しているのは、ベネルクス三国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)とカナダ、オーストラリアの一部の州です。医師による自殺幇助については、ベネルクス三国とスイス、米国の一部の州などで容認されています。なお、日本では、積極的安楽死については1995年に横浜地裁が示した判例がありますが、これは現代の医療現場には適さない内容となりましたので、実態としては違法といえます。また医師による自殺幇助も違法です。

*次の記事では、人生の最終段階における医療・ケアについて解説します。

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