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マギーズ東京 秋山正子さんのあゆみ−病院でも家でもない「第二の我が家」をつくるために

マギーズ東京 共同代表理事・センター長 秋山正子さん

緑に囲まれた建物と、手入れの行き届いた中庭。大きな窓からは水面の揺らめきを望み、海風を感じることもできる。マギーズ東京は、がんになった方やご家族、友人など、がんに影響を受ける全ての方が、気軽に訪れ、「自分の力を取り戻す」ことを目指す場所です。

マギーズ東京の共同代表理事・センター長を務める秋山正子さんは、2019年5月に「第47回フローレンス・ナイチンゲール記章」を受章しました。本記章は、顕著な功績のあった世界各国の看護師などに対し、2年に一度、赤十字国際委員会(ICRC)ナイチンゲール記章選考委員会(スイス・ジュネーブ)から発表されます。秋山さんに、マギーズ東京が開設に至るまでの経緯や現在の思いについて、お話を伺いました。

※マギーズセンターは、宿泊施設ではなく、また治療や投薬を行う医療機関でもありません。


秋山正子さんのあゆみ−マギーズ東京を開設するまで

父をがんで亡くした経験がきっかけとなり、看護師を志した

高校1年生のときに父をがんで亡くした経験が、看護師を志すきっかけになりました。父は末期の胃がんだったのですが、それを知ったのは父の死後です。当時は今と異なり「がんを告知しない」時代で、母以外、子どもである私や姉、そして本人さえも、病気や治療の詳しいことは知らされませんでした。

父が亡くなってから少しして、母から真実を聞き、自身の無力さを感じました。同時に、「もしもっと早く分かっていたら、何かできたかもしれない」とも思いました。そのような経験から、看護の道に進むことを決めたのです。

 

看護大学を卒業後、教員の道へ

高校を卒業後、聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)に進学し、東京で一人暮らしを始めました。それから、助産師の資格を取得し、大学卒業後は産婦人科病棟で助産師として働きました。その後、知人からのお誘いを受け、大阪大学医療技術短期大学部(現・大阪大学医学部保健学科)で教鞭を執ることになりました。

 

姉を自宅で看取った経験が、在宅医療・訪問看護への傾倒を後押しした

それから4年ほど、成人看護学講座の助手として働き、その間に結婚と出産を経験しました。その後、京都の看護専門学校に転職し、仕事と子育てを両立しながら、毎日学生たちと向き合う日々でした。

 

そのようななか、当時40歳だった姉が、転移性肝臓がんで余命1か月であるという突然の知らせを受けます。すでに肝機能が大幅に低下しており、抗がん剤を使うこともためらわれる状態でした。

「姉は、人生の最期を、どこでどのように過ごしたいだろうか」その問いに対する答えを、姉と、姉の家族とともに懸命に探しました。彼女には2人の子どもがいて、長らく専業主婦でしたから、「きっと最期まで家族と一緒に自宅で過ごしたいだろう」という考えに至り、思い切って家に連れて帰ることにしました。

 

当時はまだ在宅医療の社会的なシステムが整っていなかったため、まず、家に来てくれる医師や、家事の援助をしてくれる方を探すところから始めました。多くの方にご協力いただいたおかげでチームのような形ができ、その結果、余命1か月といわれていた姉は、5か月もの間、自宅で過ごすことができました。

末期のがんを患っていた姉を、家族と共に自宅で見送ることができたこの経験は、これ以降、私が在宅医療・訪問看護という分野へ傾倒するきっかけとなりました。

 

「病院でも家でもない、第二の我が家のような場所」をつくろうと決意

1992年からは、がんを含むさまざまな病気の患者さんに対する訪問看護に従事しました。そのなかで、患者さんが心の内を周囲に相談できずに困っているケースが多くあることに気づきました。そして、自分自身もかつて、がん患者の家族として、その事実に戸惑い、不安を抱えながら、相談する相手や場所を求めていたことを思い出したのです。

「病院でも家でもない、第二の我が家のような場所を必要としている人がいる」そう確信した私は、がん患者さん向けの相談支援の環境をつくろうと考えました。

 

英国マギーズとの出会い。日本に展開することを構想し始めた

2008年の秋、あるセミナーで、英国にあるマギーズ・キャンサーケアリング・センターの存在を知りました。そこでの取り組みを聞いて、「求めていたものはこれだ!」と直感し、翌年には、視察のため現地に赴きました。

*マギーズの成り立ちについて、詳しくは記事1をご覧ください。

 

実際にマギーズ・キャンサーケアリング・センターを視察してみると、その素晴らしい空間や取り組みに感動しました。そして、「日本にも、マギーズのような第二の我が家を必要とする人は必ずいる。マギーズを日本につくろう!」と心に決めたのです。

 

そこで、いろいろな方にはたらきかけると共に、講演で話をするたびに「マギーズを日本でも立ち上げたい」という構想を伝え続けました。そして、あるご縁がきっかけとなり、2011年には、マギーズの準備を兼ねて「暮らしの保健室」を開設することができました。

 

「暮らしの保健室」の開設と、鈴木美穂さんとの出会い

暮らしの保健室とは、誰でも予約なしに無料で、医療や健康、介護、暮らしの相談ができる場所です。暮らしの保健室は、高齢化の進んだ都営団地の商店街でスタートし、2017年には『グッドデザイン特別賞(地域づくり)』を受賞しました。潜在的なニーズの高さからか、暮らしの保健室は現在、全国50か所以上に増え、地域に開かれた相談窓口として活用されています。

*2019年5月時点

 

マギーズ東京の共同代表を務める鈴木美穂さんとは、2014年に、暮らしの保健室で初めて出会いました。彼女は24歳で乳がんが見つかり、不安や孤独感に苛まれながら、なんとか治療を乗り越えた方です。「がん患者さんとその家族のための空間が欲しい」と考えていたときに英国のマギーズの存在を知り、いろいろと調べていくうちに私の情報にたどり着き、暮らしの保健室を訪ねてくださいました。

 

多くの支援と協力によってオープンしたマギーズ東京

鈴木美穂さんとはすぐに意気投合し、仲間とのプロジェクト始動、クラウドファンディングによる支援募集など、マギーズ東京の開設に向けた動きが急激に展開していきました。

 

▼鈴木美穂さんの著書『もしすべてのことに意味があるなら』

 

2014年、建築チームと看護師チームが本格的に始動し、2015年には英国マギーズとの交渉が成立したことで、無事に『NPO法人マギーズ東京』が発足しました。その後もたくさんの方々にご支援・ご協力いただき、2016年10月、マギーズ東京をオープンすることができました。


マギーズ東京を開設して間もなく3年。現在の思いとは

マギーズ東京をオープンして以来、月に500名ほど(年間6,000名ほど)の方が来訪されており、この来訪者数は、開設前に想定していた年間1,000名という数字をはるかに上回っています。これほどまでに「がんに影響を受ける方々が気軽に相談できる空間」が社会のなかで必要とされていることに驚くとともに、マギーズ東京の存在意義をあらためて感じます。

*2016年10月11日〜2018年6月30日データ

 

初めてマギーズ東京を訪れる方は、さまざまな形で心に負荷を抱えていらっしゃいます。がん患者さんであれば、戸惑いや不安、孤独などを感じ、本当はがんを患っていることは自分の一部でしかないのに、まるで「自分ががんそのものになってしまった」という感覚に陥っていることがあります。そのような方がここで時間を過ごすうちに、背負っていた心の負荷を手放し、自分自身でこれからの生き方に対する答えを見つけ、前を向いて歩き始めるプロセスを何度も目の当たりにしてきました。そのたびに感動を覚えますし、人の強さというものを実感します。

 

 

あるとき、女性のがん患者さんが「抗がん剤の副作用で脱毛があるので、医療用ウィッグの作り方を知りたい」といって、娘さんと共に相談に来られました。お話を伺っているうちに、その方はもともと徳島県の出身で、阿波人形浄瑠璃の伝承者であることが分かりました。ときどき地域の子どもたちに、阿波人形浄瑠璃を教えていることを話してくれました。

 

阿波人形浄瑠璃では、人形遣いは劇の最後に被り物を脱いで挨拶をするため、脱毛した頭を観客に向けて見せると失礼にあたるのでは、という懸念があり、医療用ウィッグの購入を検討したそうです。

 

初めは沈んだ様子でしたが、阿波人形浄瑠璃の話をしているうちにだんだんと元気を取り戻し、医療用ウィッグをつくるという先入観から解放されたようでした。

最後には、「たとえ脱毛した頭が見えても、私はがんと闘ってその姿になったのだから、堂々としていよう。子どもたちには、私もがんばっているから皆もがんばってね、という気持ちを伝えよう」とおっしゃいました。

 

このように、がん患者さんが前向きな自分を取り戻し、変化していく瞬間に立ち会うとき、いつも感動して心が震えます。

*阿波人形浄瑠璃・・・人形浄瑠璃は、義太夫節で物語を語る太夫と三味線、3人遣いの人形によって演じられる人形芝居。徳島県の人形浄瑠璃は、農村舞台と呼ばれる神社の境内に建てられた人形浄瑠璃用の野外劇場にあわせた独自の演出などの特徴を持ち、「阿波人形浄瑠璃」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 

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