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防げない転倒・転落、現実に即した法的判断を――不当な判決が招くもの

一般社団法人 日本医療安全学会 理事長、浜松医科大学 医学部医学科法学 教授 大磯 義一郎さん

介護・医療現場において日常的に起こり得るアクシデントの1つとして“転倒・転落”が挙げられます。転倒・転落が起こった場合、施設や個人に損害賠償が求められることがありますが、中には現場の実情を無視した不当な判決が下されるケースがあります。一般社団法人 日本医療安全学会 理事長で浜松医科大学 医学部医学科法学 教授の大磯 義一郎(おおいそ ぎいちろう)さんは、「誤った司法判断は、現場の萎縮や身体拘束につながる恐れがある」と警鐘を鳴らします。大磯さんに転倒・転落を取り巻く法的な問題について、実際の判例を交えてお話を伺いました。


転倒・転落を完全に防ぐことはできない

各病院や施設では、転倒・転落を防ぐためのさまざまな予防策がとられていますが、完全に防ぐことは極めて困難です。2020年の報告によると、65 歳以上の高齢者の転倒・転落による死亡者数は8,851件となっており、これは交通事故による死亡者数の約4倍にあたります。

転倒・転落の予防についてはさまざまな研究が行われているものの、リスク低減を示したデータはごくわずかしかありません。運動や薬の調整で発生リスクを2割ほど低減したとの論文がありますが、裏を返せば8割は転倒・転落が起こることを意味します。すなわち、転倒・転落をゼロにするには、過度な身体拘束などを行うほかなく、現実的に不可能であることがエビデンス上でも明らかになっているのです。

それにもかかわらず、介護・医療現場における転倒・転落に対し、実情を無視したような判決が近年相次いでいます。そこで2023年11月、日本医療安全学会など11団体が共同で“介護・医療現場における転倒・転落 ~実情と展望~”を発表しました。介護・医療現場の現実に即した法的判断を求め、現場の萎縮や利用者・患者さんの不利益を回避したいとの思いが込められています。


どのような法的責任を負うのか?

介護・医療現場で転倒・転落事故が発生した場合、介護者や医療者、施設が法的責任を負うケースがあります。紛争が起こった際に問題となる法的責任が、不法行為(民法709条)または債務不履行(民法415条)による損害賠償の支払いです。

不法行為とは、故意または過失により他人に損害を与えることを意味し、加害者はこれにより生じた損害を賠償する責任があります。過失があるとされるのは、“結果予見義務”と“結果回避義務”が尽くされなかった場合です。交通事故の例で考えると「脇見運転をしたら人をひいてしまうかもしれないと予見すべきである」というのが結果予見義務であり、「予見した以上は少なくとも回避行動として、脇見運転をせず、まっすぐ前を見て運転すべきである」というのが結果回避義務です。結果を予見すべきであったのにそれをせず、かつ、結果を回避すべきだったのに脇見運転をしたということは、それは過失である、というわけです。

これを転倒・転落に当てはめて考えてみます。まず「転倒・転落が起こるかもしれない」という結果予見義務についてですが、近年では論点にならなくなってきています。なぜなら入院や入所時に、認知症の有無、過去の転倒履歴、睡眠薬の使用状況などにより転倒・転落リスクはしっかりと確認されているケースがほとんどであるからです。

そのため、裁判で主として論点になるのが「転倒・転落を防ぐための回避行動をしたか」という結果回避義務です。ただし先述のように、できる限りの対策を行っていたとしても、転倒・転落を完全に防ぐことはできないことが分かっています。

そうした前提を考慮せず、裁判では「なぜ適切な結果回避行動を取らなかったのか」として、施設が取るべきだった転倒・転落防止策が次々と挙げられていきます。「こうすれば、ああすれば防げたのではないか」といった尋問が繰り返されているうちに“過失あり”とされてしまうことが、法廷では往々にして起こり得るのです。


病院の過失とされた事例

裁判では、介護・医療現場の実情から大きくかけ離れた非現実的な理由で、病院や個人が損害賠償を課せられるケースがあります。過去の事例を2つご紹介します。

1つはICUに入院していた26歳男性の判例です。せん妄や暴れるなどの症状があり身体拘束が行われていましたが、極度の痩せ型であったため、常駐していた看護師がその場を離れた数分の隙に拘束をすり抜けベッド柵を乗り越えて転落し、急性硬膜下血腫で亡くなってしまいました。裁判では24時間監視義務があったにもかかわらず、看護師が数分でも目を離したのは結果回避義務違反であるとの理由で過失が認められ、病院に損害賠償を命じました。

もう1つは入院中の認知症の高齢患者さんの判例です。夜間、看護師がトイレに付き添っている最中に別のナースコールが入ったためそちらに対応したところ、1人で居室に戻ろうとした患者さんが転倒し、重い障害を負ったのちに亡くなった事例です。夜勤の看護師3人で業務にあたっており、1人は休憩中、1人は別の患者さんの対応中という状況でした。裁判ではナースコールは放っておけばよかった、ナースコールに対応したければ休憩中の看護師を起こして対応させることもできたはずだ――など無茶な理屈が並べたてられ、結果的に病院の過失とみなされたのです。


不当な司法判断は現場の萎縮、身体拘束につながる

真摯に患者さんに向き合い適切な治療・ケアを行っているにもかかわらず、現場の状況を無視し、結果論だけで“過失”と判断される事態が発生すると、現場は疲弊し萎縮してしまいます。そしてこうした事態を避けるには、身体拘束により物理的に転倒を防ぐしか対策がなくなってしまいます。

2001年には厚労省が『身体拘束ゼロへの手引き』を作成し、特に慢性期病院や介護施設は身体拘束の最小化に向けて一生懸命に取り組んできました。また、2024年には診療報酬改定で身体拘束最小化の基準が設けられています。身体拘束を助長するような判例が出てしまうと、こうした取り組みに逆行せざるを得なくなります。

また、身体拘束は縛られる本人にとっては極めて不快であり、人権にも大きく関わる問題です。特に介護施設や慢性期病院では、人生の最終段階にある人が多く過ごしています。私は、本人が散歩をしたいと言うなら、転ぶ可能性があっても歩けるうちに散歩をしてもらったほうがよいと思いますし、誤嚥(ごえん)リスクがあっても食べたいものを食べてもらうのがよいと思うのです。不当な司法判断が現場の萎縮と身体拘束につながり、利用者や患者さんの尊厳が踏みにじられてしまうことを非常に危惧しています。


全ての医療に無過失補償制度を

介護・医療従事者は医療事故リスクと隣り合わせにあります。医療事故が起こった際、医療者の過失の有無によらず被害者を救済する“無過失補償制度”の創設が求められています。日本の医療の問題点は、誰もがどこでも医療を受けられる社会主義的な国民皆保険制度を採用しているにもかかわらず、何かトラブルが起こったときに国などが補償してくれる制度はなく、自由主義的になるという点です。医療により損害を受けた場合、医療者側のミスがあったことにしない限り補償が受けられない、だから裁判になるというわけです。

産科では、分娩時に前置胎盤で母親が亡くなってしまった事例をきっかけに産科医療補償制度が創設されました。日本が世界に誇る国民皆保険制度や質の高い医療の存続のためにも、産科以外の全医療にも無過失補償制度を導入するべきだと考えます。


介護・医療従事者が知っておくべきこと

転倒・転落事故をはじめとした医事紛争への備えとして、介護・医療従事者が自分の身を守るために知っておいていただきたいポイントが2つあります。

1つは“できないことを計画書(看護計画など)に書かないこと”です。“転倒・転落を防止する”など現実的にできないことを書いてしまうと、防止すると宣言したのになぜしなかったのかを問われることとなります。 実際、転倒・転落が起こらないよう常時観察すると看護計画に書いたのに24時間観察していなかったのは過失であると争われた事例があります。現実的にできないことを書くのは極めてリスキーといえるでしょう。

2つ目は“計画し実施したことはしっかりと記録に残すこと”です。たとえば“2時間おきに見回りをする”との看護計画を立てて実行したものの、実施時刻の記録漏れが多いと、記録がない部分は実施していなかったと認定されることがあります。計画を立て実施したのであれば、忘れずに記録に残すようにしましょう。


介護・医療現場で働くみなさんへ

人間としての尊厳を守るために“身体拘束ゼロ”は目指すべき方向だと思いますし、現場のスタッフも何とかして身体拘束をせずに利用者や患者さんの安全を守ろうと努力しています。そうしたなかで、先に紹介したような実情を無視した司法判断が出ると、現場は萎縮してしまい、身体拘束が必要だとの議論に逆戻りしかねません。

そうしないためにも、11団体の共同声明という形にこだわって転倒・転落を取り巻く問題についても公表し、医療経済的にも倫理的にもしっかりと取り組むべきテーマであることを示し、社会を変容させる力にできればと考えました。また転倒・転落だけでなく、誤嚥も現場の萎縮を招くトラブルの1つとなっています。今後、誤嚥についても全国的なアンケート調査を実施し、転倒・転落と同じような声明を出せればと考えています。

利用者や患者さんの尊厳や思いを大切にしたケアをしたいというのは、介護・医療現場で働くスタッフみなさんが思っていることでしょう。みなさんが自分の仕事に誇りを持ち、「利用者や患者さんのために頑張ろう」という気持ちになれる現場がつくれるよう、これからも取り組んでいきたいと思います。

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