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生活の営みからケアの連鎖を――藤岡 聡子さんが目指す“福祉の再構築”

ほっちのロッヂ 共同代表/株式会社ReDo 代表取締役 藤岡 聡子さん

現代は、各自の持つ属性によって病院、介護施設、学校と集う場所が限定されることが多く、異なる属性の人が混じり合う機会は多くありません。そのような常識に疑問を抱いた藤岡 聡子(ふじおか さとこ)さん(ほっちのロッヂ 共同代表/株式会社ReDo 代表取締役)は、“ほっちのロッヂ”という、診療所と大きな台所があるケアの文化拠点を長野県軽井沢町に立ち上げました。“福祉環境設計士”という肩書を掲げる藤岡さんに、“ほっちのロッヂ”における福祉やケアのあり方、ケアする人とされる人という二者を作らないことの大切さについてお話を伺いました。


ほっちのロッヂとは――診療所と大きな台所がある“ケアの文化拠点”

ほっちのロッヂは、診療所と大きな台所がある“ケアの文化拠点”です。内科、小児科、緩和ケア、在宅医療などを行う診療所、病児保育室、訪問看護ステーションのほか、大きな台所や本棚、アトリエを備えた共生型通所介護、児童発達支援、放課後等デイサービスといった、町の人々の暮らしに関わるさまざまなサービスを提供しています。

たとえば若者なら学校へ、高齢者なら通所介護へというように、自分の意思とは関係なく、年齢やその人の状態によって通う場所がおのずと決められてしまうのが今の日本です。「自ら選んで集える場所を作りたい」という思いから「症状や状態、年齢じゃなくって、好きなことをする仲間として、出会おう」という合言葉とともにほっちのロッヂを立ち上げました。

ほっちのロッヂは、“診療所を作ろう”という思いからスタートした施設ではありません。医療を受けることや、ケアをすること/されることは人の暮らしの一部であり、食事を取ることや服を着替えることと同じです。地域の人たちの暮らしに近い現場を作りたいと考えたときに、医師の紅谷 浩之(べにや ひろゆき)(ほっちのロッヂ共同代表)との出会いがありました。診療所と台所なら暮らし全体を少し表現できるのではないかと思い、ほっちのロッヂは大きな台所を備えています。


“患者さん”だけでカテゴライズしたくない――使命感から生まれた“誰でも集まれる拠点”

多様な役割を持つ拠点を作ったのは「人を何らかの区分でカテゴライズしないことをやってみたい」という使命感があったからかもしれません。

その思いが生まれたきっかけは、小学校高学年のとき、敬愛する父が病に倒れたことでした。医師という職務に心血を注いでいた父は、当時も今も憧れのヒーローです。闘病していても、私にとっての父は尊敬する父であり、医師であり、今までと何ら変わることはありませんでした。しかし、私以外の家族や周囲の人たちは、病をきっかけに本人の意思とは関係なく父を“病人”とみなし、接するようになったのです。皆が父を病人としてしか見なくなったことを私はとても苦しく感じていました。“病気を抱えている”というカテゴリーはその人の一面に過ぎません。そこだけを切り取ると、その人が大切にしていることすらも見えなくなる恐れがあるという原体験だったと思います。その後、夜間定時制高校に進学した私は、さまざまなバックグラウンドを持つ多様な同級生に出会い、異なる属性の人と同じ時間を過ごすことの心地よさを知りました。

紅谷と出会い、地域の人が集う場を作ろうと考えたとき、根底にあったのは“患者さん”だけ、あるいは“高齢の人”だけが集まるような場は作りたくないという思いでした。そこで、人をカテゴライズせず、混ざり合って集まれる拠点を作ることにしたのです。


“人の営み”全てを福祉と捉えて豊かにするために

私は、自分が行っている仕事がどういうものかを伝えるために“福祉環境設計士”という肩書きを使用しています。福祉とは、介護や医療だけに限定されない幅広いもので、いわば“人の営み”だと私は考えています。専門職によって提供される医療を中心としたとき、その周縁を整え、豊かな生活の実現に向けて取り組むことが私の仕事だと思っています。

また、ケアの現場は、医療行為やリハビリテーションなど、“資格を持つひとり一人の表現が生み出される場”だと私は捉えています。ほっちのロッヂはこの町における文化芸術・アート活動の拠点の1つでもあり、アーティストが滞在することもあります。医療者もアーティスト同様に、それぞれの専門性と表現方法を持つ人たちです。それぞれの表現がどうすればもっとも花開くかを考えて、環境を整え、働き手を支えていくことも私の仕事です。その結果、ケアを必要とする人たちへ必要なケアを届けることにつながっていくのではないかと思います。


“ケアする人/される人を作らない”ことが両者の逆転を生む――福祉のあり方を再構築する

医療では、医学的な知識を持った医療者が“ケアする側”“教える側”になりがちです。しかし、あらゆる人がケアする側にもケアされる側にもなり、結果として両者が逆転することも起こり得ます。つい最近も、ほっちのロッヂのスタッフが教わる側になったことがありました。

ある方は98歳で寝たきりの状態でしたが、“もとの暮らしに戻りたい”という希望がありました。そのためスタッフは、排泄についてはおむつを使用している状態からポータブルのトイレを使用する状態を目指そうと提案したのでした。しかしその方は、「自分で歩いて家のトイレへ行くこと」がもとの暮らしだとまっすぐスタッフの目を見て言ったそうです。医療者はつい段階的に目指すべきゴールを設定しがちですが、その方はそんな医療者の想定を飛び越えた回復を目指していたのです。

トイレも大切な表現活動の1つです。患者さんが求める暮らしを実現するために、ご本人が“どのように、どこに向かって回復していきたいか”を聞くことの大切さを学びました。また本来ケアするはずの私たちが非常に勇気をもらった出来事でした。

このように思ってもみなかった気付きをその時ケアを必要とする方々から与えられ、逆に感謝を伝えたくなるようなことが起こるのがケアの現場だと考えます。「“患者”からケアされることはない」と思っているとしたら、そういった視点もあることにただ気付いていないだけではないでしょうか。人をカテゴライズしないことは、ケアする側とされる側のあらゆる可能性を引き出すことにもつながるのです。

またケアの現場では、お看取りをしたら医療を提供する施設とご家族とのつながりが切れてしまうことも多いかもしれません。ほっちのロッヂは医療や介護だけを行う場ではないので、看取った後もご家族とのお付き合いが続いていくという特徴があります。ほっちのロッヂの庭の草刈りや台所仕事のボランティアとして私たちと関わり続けてくれることで、ケアが循環することもあります。庭の整備も食べることも医療も、どれもがひと続きの暮らしの中の営みであり、その人の営みの中でケアが連鎖し、続いていくのです。人の営みをカテゴライズしないことが福祉の再構築につながり、人の営みが巡っていくのだと考えています。


“死”を地域で分かち合う文化を日本でも醸成したい

現代の日本では、死が個別の体験になりすぎていると感じることがあります。そして、死に向かう隣人に対して何ができるのかを考える機会が減っているように思います。私たちは“死に向き合うこと”を専門職やご家族だけの特別な体験にしたくはないと考えています。

メキシコには、“死者の日”という伝統行事があります。大きな祭壇を作り死者を祝福し、地域によってはパレードも行われます。死者の魂を個人ではなく地域全体で祝う文化を持っているのです。これは極端な例かもしれませんが、将来的に死の喪失や悲しみを個別のものとせず、集落の皆で分かち合うことを日本でも取り入れることができないだろうかと考え、スタッフと共に私たちなりの死との向き合い方を模索しています。

ほっちのロッヂ内にある“死者の日”の祭壇(撮影当時)


慢性期医療に携わる人へメッセージ

急性期・回復期・慢性期の医療は、連続したもので切り離して考えることはできません。患者さんが自宅に帰るために行われるリハビリテーションも、患者さんの自宅の階段がとても狭く急なものだとしたら、広く平坦なリハビリテーション室と同じようにスムーズに歩くのは難しいかもしれません。医師や理学療法士としての視点のみにとらわれてしまうと、提供すべきケアが患者さんの暮らしとはかけ離れてしまうことがあるかもしれない、そんな問いとともに、今行っていることがこの先のどこにつながっているのか、リアリティをもって見通すことが大切ではないでしょうか。一人ひとりが「目の前の人の幸せと豊かさを実現するためにできることは何か」と想像力やクリエイティビティを発揮していただけることを願っています。

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