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摘便シミュレータの開発――異分野と連携した“ものづくり”で看護ケアの課題に挑む

慶應義塾大学 看護医療学部 准教授 宮川 祥子さん

“摘便”は、看護を学ぶ中でも実践的なトレーニングの機会が少ない手技です。「摘便のトレーニングのためのよいツールがほしい」という現場の声を聞き、慶應義塾大学 看護医療学部 准教授の宮川 祥子(みやがわ しょうこ)さんは解決方法を模索してきたといいます。そして、こうした看護ケアの困り事を“ものづくり”で解決しようとFabNurse Projectを立ち上げ、異分野の研究者と連携する機会を得て“摘便シミュレータ”の開発に取り組んでこられました。今回は宮川さんに、開発までの経緯や製品の特徴、FabNurse Projectが目指す方向性についてお話を伺いました。


摘便シミュレータとは? 摘便の手技を身につけるための訓練装置

摘便シミュレータとは、看護師が摘便ケアを練習するための装置です。摘便とは、自力排便が難しい患者に対して、肛門から指を入れて便を排出する看護ケアのことです。腹部マッサージ、内服薬(整腸剤や下剤)、坐薬(下剤)、浣腸などとともに排便ケアの1つとして位置づけられています。

摘便は患者さんの体のデリケートな部分の粘膜に触れる手技であり、安全かつ安楽に行えるスキルの習得が求められます。しかし、看護教育の中でも実践する機会が少なく、看護師の多くが臨床現場に出てからOJT(実地研修)で学んでいるのが実状です。そこで私たちは、看護師が十分にトレーニングを積めるよう、直腸3Dモデルを用いた再現度の高い摘便シミュレータを開発しようと考えたのです。


摘便シミュレータ開発の経緯――現場の看護師の声がきっかけに

摘便シミュレータの開発に取り組むようになった最初のきっかけは、訪問看護ステーションを運営する本学部卒業生から「摘便のトレーニングが難しいので何かよいツールを作れないか」と相談を受けたことです。解決方法を模索するなか、2015年にものづくりによるケアの課題解決を目指す“FabNurse Project”という研究プロジェクトを学内で立ち上げました。その流れで、2018年から東京工業大学(現・東京科学大学)の鈴森 康一教授が主導するソフトロボット開発の研究グループに参加し、摘便をはじめとした医療的ケアへのソフトロボットの応用について話し合う機会を得たのです。そこで排せつケアの課題についてお話しし、関心を持ってくださった研究者とともに摘便シミュレータの開発をスタートさせました。

開発プロジェクトは、看護を取り巻く背景、看護師が日頃から大切にしている安全性や安楽への意識についてロボット工学のエンジニアと共有するところから始まりました。また、摘便に関する資料が乏しかったため、摘便経験を重ねた訪問看護師に協力してもらい、摘便の役割や手順、リスク管理、実際の感触や指の動かし方、それに対する腸の反応などを一つひとつ確認していきました。看護師が語る「こういうタイミングでググッと押し出して……」、「キュッとなっていたものがフワッと緩んで……」といった感覚的な表現を工学的な仕様に落とし込む作業を繰り返し、人間の体に近いやわらかな動きを再現するソフトロボット技術に到達したのです。

直腸3Dモデルを用いた摘便シミュレータ


摘便シミュレータで実地に近いトレーニングが可能に

実際の摘便では指を直腸内に入れることで直腸内を刺激して肛門挙筋の弛緩や便の送り出しを促しています。このような反応を看護師の指がとらえて、肛門からの便の排出を促していきます。ソフトロボット技術による摘便シミュレータには、直腸内への刺激に対する腸の反応が組み込まれたため、実際の摘便に近い形で手技を学べるようになりました。
慢性期医療において、排せつ困難は患者さんの生活の質に大きな影響を与えると考えています。看護師が適切な摘便の手技を身につけ、排せつ困難が改善されれば、患者さんご自身はもちろん、在宅でケアされているご家族の負担軽減にもつながるでしょう。

今回開発した摘便シミュレータはすでに複数の訪問看護ステーションで試験的に導入しており、新人看護師向けの訓練装置として反響をいただいています。慢性期病院においても看護師のスキル向上に貢献できる可能性が高いでしょう。現在は、企業とともに販売に向けて製品化を進めている段階で、多くの人に活用いただけるよう教育プログラムのデザインも同時進行しています。
今後も引き続き、摘便ケアのスキル向上の課題を広く知っていただけるよう取り組んでいきたいと考えています。加えて、さまざまなタイプの排せつ困難や便の状態に対応できるよう、摘便シミュレータのさらなる進化を目指しています。


ケアの課題にものづくりで挑むFabNurse Project

FabNurse Projectの立ち上げにつながったきっかけの1つは、2010年ごろ、私が勤務する慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに3Dプリンターが導入されたことです。これを使えば、患者さん一人ひとりにフィットしたケア用品や自助具を作れるかもしれないと思い立ったのです。当初は硬いプラスチック素材しか使用できず、ケア用品に応用するのは難しい状況でしたが、数年後にはゴムのようなやわらかな素材でも出力できるようになり、ケア用品の製作に活用するための道筋が見えてきました。そこで、同じキャンパス内で3Dプリンターを使ったものづくりを研究している環境情報学部の田中 浩也教授に声をかけ、看護医療学部で看護を学ぶ学生と環境情報学部で3Dモデリングによるデザインを学ぶ学生が参加する合同ゼミナールをスタートさせました。このゼミの中でFabNurse Projectを立ち上げ、大きく2つの方向性をもってものづくりに取り組んできました。

その1つが、一人ひとりにぴったりフィットしたケア用品を届けることです。近年はケア用品も自助具もバリエーションが増えていますが、既製品だと使いづらいと感じる人も少なくありません。個々のニーズに合ったものを作れれば、日々をより快適に過ごせるようになるのではと考えています。
現場で働く看護師は一人ひとりの患者さんと丁寧に向き合い、それぞれのニーズを細かく把握していますが、ものづくりとは無縁で既製品を工夫しながら使って対応しています。一方、デザイナーやエンジニアは看護現場を知りませんが、ものづくりの技術や知識を持っています。両者が連携すれば、ケアの前提となる安全性を十分検討しながら個々のニーズに応じたものづくりができるようになるのです。
看護を学ぶ学生たちには、FabNurse Projectを通じて“異分野の専門家と協力して患者さんに合った一点ものを作ることがよりよいケアにつながる”という考え方を身につけてほしいと思っています。それによって看護の可能性が広がっていくことを願っています。

FabNurse Projectではもう1つ、その時どきに求められているものを短時間で作り、タイムリーに届けることも大切にしています。たとえば、新型コロナウイルス感染症の流行時には3Dプリンターを使って、人からの飛沫を防ぐためのフェイスシールドを1,000個ほど作り、訪問看護ステーションや小規模多機能介護施設などを中心に配布しました。その際、取扱説明書を同封し、現場の人に迷わず安全に使ってもらえるよう配慮しました。また、ワクチン接種が始まるとワクチンの打ち手不足という問題が生じ、手を挙げたくてもブランクがあって技術に自信がないという看護師のために、筋肉注射の練習モデルを作りました。このように限られたニーズであっても、確実に求められているものをすぐに作れるのが3Dプリンターのよいところです。この利点を生かして医療、介護の分野へのさらなる貢献を目指しています。

FabNurseワークショップの様子


現場の“アイディア”とそれを形にする“技術”の橋渡し役に

FabNurse Projectでは“ケアのものづくりワークショップ”を開催しています。参加者には困り事をツールで解決するためのアイディアを出し、それを形にすることがケアの一部なのだと気付いてほしいと思っています。看護師は患者さんに接する時間が長いため、患者さんやご家族がどのような困り事を抱えているかよく知っています。そして、ワークショップで実際に簡単なツールを作ってもらうと、「これができるならあれもできるのでは?」とアイディアが次から次へと湧き出てくるのです。実際に、低床ベッドに対応した蓄尿袋ホルダー、CVポート刺入の練習モデル、機械入浴時のけがを防止するためのアームカバーなどを製作してきました。
また大学のゼミでは、学生たちが片麻痺がある人の体の傾きを防止するひじ掛けのようなツールや、自宅療養されている患者さんのご家族が痰の吸引を練習するためのモデルなども作りました。ゼミの卒業生の中には、ケアを支援する製品を販売するウェブサイトを立ち上げた人もいます。

なお、ケアが行われているのは病院や患者さんの自宅だけではありません。学校に医療的ケアを必要とする生徒が在籍していれば、たとえばてんかんの発作を起こしたときには、一般の教員が速やかに薬を投与しなければならないこともあります。しかしながら投薬の訓練をする機会はほとんどないため、私たちは養護学校の先生向けに投薬練習用の頭部モデルを作って提供したこともあります。このように、医療者以外の人がさまざまな場面で誰かをケアしなければならないケースも多く、そのような立場の人たちへのサポートも重要だと考えています。

FabNurse Projectを通じて、看護のプロとしてケアのものづくりのプロセスを理解し、アイディアを実現するために異分野の専門家と連携するなど、作りたい“もの”とそれを形にする“技術”を橋渡しできる看護師が増えていくよう願っています。


読者の皆さんへのメッセージ――異分野と連携したものづくりでよりよいケアを

看護ケアのものづくりにはまだまだ発展の可能性があります。患者さんのケアに携わっている医療従事者の皆さんには、異分野の研究者や専門家とのコラボレーションによって患者さん一人ひとりのニーズに合った“もの”を作りだす取り組みにぜひチャレンジしていただきたいと思っています。そこで生まれたものが慢性期病院でのケアに役立つだけでなく、自宅で療養されている患者さんの生活の質向上やご家族の負担軽減にもつながっていくことを期待しています。

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