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ビジョンを語り、従業員の生活を守り抜くことが経営者の使命――遠藤 正樹さんの思い

医療法人社団康明会 理事長 遠藤正樹様

医療法人社団康明会の理事長を務める遠藤 正樹(えんどう まさき)さんは、病院の医療ソーシャルワーカーとして就職し、さまざまな医療の現場に携わった後、病院経営者としての道を歩んでこられました。医療法人の理事長を務めるまでの経緯や現在の思いについて、遠藤理事長に伺いました。


医療の世界に携わることを決めた2つのきっかけ

私は元々、病院の医療ソーシャルワーカーとして働いていました。病院に勤めるようになったのは、大学時代の恩師が偶然、保健医療福祉のインテグレーション(統合)の研究者である医師だったことがきっかけの1つです。先生は、当時、一般企業か福祉関係の仕事に就くか迷っていた私に「医療の世界で戦ってきなさい」と、東京都内や埼玉の病院で実習を受ける機会を与えてくださった方です。就職難の時代で、しかもソーシャルワーカーは人気の職業だったこともあり、“何でもやる”という思いで必死に勉強し、無事に就職することができました。

もう1つのきっかけは、大学時代に大手自動車メーカーの下請け企業でアルバイトをしていたことです。私が目の当たりにしたのは、大けがの危険がある過酷な現場で働く労働者の姿でした。経済的に豊かではなく、病気になっても病院へ行けないという方、けがをしたり体を壊したりする方が多くいらっしゃる現実を垣間見て、“何か少しでもお役に立てることはないか”と考えるようになったのだと思います。


医療ソーシャルワーカーとしての有難い修行の日々

最初に入職した民間病院で担当した業務内容はさまざまでした。当時は社会福祉士という資格もありませんので、入院相談から訪問診療の運転手、当直、営業、保険請求、当直医師の布団敷きや電球の交換、警備まで、何も資格がないからこそ、何でもやらなければならなかった時代です。

入職してからちょうど2年後、縁あって東京医科大学八王子医療センター(以下、東京医大)に招かれました。ここでは、午前中は外来のカルテ運びをし、夕方からようやくワーカーの仕事に取りかかるという毎日でした。そのとき私は“パターナリズム(父権主義)の職場では自ら切り開かなければ認められない“と思い、もう1人の上司と共に職場環境の改善を目指した戦いに挑んだことを、よく覚えています。多忙な日々で、がん末期の患者さんのインフォームド・コンセント(説明と同意)に立ち会うこと、事件や事故で救急搬送されてきた患者さんや、外国人患者さんの通訳にも対応し、深夜まで退勤できないこともめずらしくはありませんでした。

やがて、近隣にある民間病院の先生方から「病床が埋まらない。患者さんを紹介してほしい」「事務長さんが医療従事者ではなくて右も左も分からない」「医師の非常勤の働き口が見つからない」といった相談や依頼が舞い込むようになり、私は大学病院公認で、地域の民間病院との仲介役のような仕事を引き受け始めました。その中でも、経営に関する相談で「この1億円を何に使ったのか分からない」というようなケースには数多く直面しました。病院の赤字や、将来的に発生する相続税などの金額を正確に把握していない経営者は実は少なくないということが分かってきたのです。そこで私は“経営のことを勉強しなければ”と決意し、初めて経営学を専門的に学び始めました。


病院の移転新築を決断し、康明会病院の新たな開設へ

東京医大から当院に移ってきたのは偶然で、奇跡のご縁だったと思っています。あるとき、日野の豊田駅前を歩いていたら「遠藤君、うちを助けて」と呼び止められました。声の主は、康明会の前理事長が運営していた日野田中病院の総看護師長です。同院は駅前の区画整理により運営困難に陥っており、移転場所も決まっておらず、移転するにも金銭的な余裕がなく困窮しているというのです。

そこで私は、ほかの病院の仕事も並行して続けながら経営支援を引き受け、日野田中病院の5期分の決算書を1か月かけて洗い出しました。そして、同院の運営を続けることは難しいと判断し、新しい土地を定期借地権で契約し、何とか康明会病院の移転新築に至ったのです。

さらに、通所リハビリテーション(デイケア)や訪問看護ステーション、市からの在宅介護支援センター運営受託など、できるだけお金をかけないよう少しずつ事業を展開し、1998年には事務長として迎えていただくことになりました。前理事長としては、当時まだ31歳の私に事務長を任せることは勇気が必要だったことと思います。この出来事は私にとって、人生の転機となりました。それ以降、2020年現在に至るまでずっと、康明会で働かせていただいております。


私を導いてくれた先輩や同士の存在

初めて就職した病院で、上司から「何でもやりなさい」と言われて懸命に働いた経験は私の原点です。次の東京医大でも、日々、多くの患者さんやご家族の苦悩を聞き届け、病との壮絶な闘いにただ傍にいること、いろいろな修行をさせていただいたからこそ、今の自分があると感謝しています。

医療倫理を専門とする哲学者の先生に縁あってご挨拶した際には、「あなたが行っていることは見事だ」と太鼓判を押していただき、「ぜひ書きなさい」と学会発表の機会までつくっていただきました。そのときの導きから、とにかく何でも書いてみることを大切にし、毎月1回は休みなどを使って、自分の考えを書き出す習慣を続けています。自然と心が鎮まり、経営の戦略や戦術が湧いてくる不思議な瞬間があることを感じます。

多摩大学大学院名誉教授の田坂 広志(たさか ひろし)先生とは、康明会病院を移転後に初めてお会いました。工学博士で、2011年の福島原発事故発生に伴い内閣官房参与に就任された、環境問題の専門家でもある方です。経営学を修めるために私が同大学院のMBA(経営学修士)コースに入った際、大学院教授に就任されたばかりの田坂先生の著作『戦略思考を変えよ』を書店で手に取ったのが最初のご縁でした。授業では2年間みっちりと鍛えていただき、著作は全て拝読して私のバイブルとなっています。

 


いつも“患者中心の医療”を最優先に考えてきた

私はこれまでに約20以上の事業を立ち上げてきましたが、その中で多くの失敗も体験しました。たとえば、数百人の患者さんへの24時間体制により看護師に大きな負担をかけたことから、今は訪問看護ステーションを休止しています(2020年6月現在)。しかし、訪問看護は、在宅医療・介護の推進が進む社会において、重要な役割を果たすサービスだと考えています。今後は、ニューノーマルな時代への転換において、すでに実施しているオンライン診療や電話での相談や診療などに加え、訪問回数をできるだけ減らすなど、各職員のサポート体制を万全にして再開することを検討しています。

理事長に就任した2016年には、病床の半分を地域包括ケア病床に転換するという大きな決断をしました。日本慢性期医療協会の武久 洋三(たけひさ ようぞう)会長、池端 幸彦(いけばた ゆきひこ)副会長、長きご縁の地元での師匠である安藤 高夫(あんどう たかお)先生が実践されてきたように、慢性期の重度の患者さんに地域密着型の医療を提供していくには、必要な転換だと判断したのです。環境が変わり不安を覚えた職員も少なくなかったと思いますが、新しい知識や技術を取り入れながら勤め続けてくださって深く感謝しています。

私が変わらずに持ち続けているのは、“患者中心の医療”をしなければならないという思いです。どのような患者さんにも楽になっていただき、弱者に優しい社会をつくりたい、そして、急増する医療・介護難民をなくすという使命が根底にあります。このような考えに共感し、患者さんに寄り添っていける医療・介護従事者と働ける組織をつくりたいと願っています。


職員の生活を守り切れるか――経営者としての思い

2019年の集中豪雨では近辺の川が氾濫寸前となり、命や病院が飲み込まれるという危機的状況を体感しました。災害などに対する全てのリスクを負うことは困難ですが、理事長として私ができるのは、患者さんを支えるとともに、職員が日々の生活に困らないような対策をとることだと考えています。

このたびの新型コロナウイルス感染症パンデミックでは、職員を守り抜くために給料を保証する必要があると考えました。そこで2020年6月3日、通年より早めに全従業員に賞与を支給し、新型コロナウイルスに感染した場合や感染が疑われた場合には特別休暇を新設して給与を保障することを明言しました。4月頃からすでに、職員の家族が仕事に窮していること、体調を崩し生活に支障が出ていることなどが耳に入ったため、生活を続けていけるよう財源を確保しなければと、臨時理事会で早々に決定しました。今回のパンデミックによって気付かされたのは、“自分の命を賭してまで職員の生活を守りきれるか”ということでした。それができない経営者には経営を語る資格はない、と私は考えています。

これからAI革命により淘汰、廃業に追い込まれる仕事が出てくるなかで、医療従事者も一人ひとり何か強みを持っていなければ仕事を続けることは難しくなっていくでしょう。さらに、新型コロナウイルス感染症拡大下において私たちに突き付けられているのは、失業・廃業に追い込まれる危機感を持たなければ気付いたときには手遅れという“ゆでガエル症候群”への警鐘です。今後は金融不安により、病院や医療法人に対する融資の貸し渋りも始まるはずです。そうなると民間の病院は新型コロナウイルス感染の患者さんを受け入れることさえ難しくなります。

この危機を乗り越えるために私は、まずは自分の生活を何か1つでも変えてみようと思いました。そこで、朝は1時間半ほど早く出勤し、アルコール綿や除菌液を使って、机、PCのキーボード、コピー機、ドアの取っ手、トイレ、椅子、電話機などを徹底的に除菌しています。そうすると、段々と腹が据わってくるものです。法人、病院一丸となって感染防止に努め、患者さんや職員とご家族を守るのだと、覚悟が決まりました。医師ではない私だからこそできることを行い、経営者としての責任を果たしてまいります。


未来に向けて

医療ソーシャルワーカーになったばかりの頃、支えてくれたのは、地方から上京してこられた住み込みの“付添い家政婦”の方々でした。入院患者さんの身の回りの世話をする家政婦さんこそが、当時の病院のケアの中心人物だったのです。これからは、このような汗をかいて働く方が活躍する時代が来ると信じています。そして、電話1本、あるいはスマートフォンを通じてすぐに相談に応じてもらえるような病院や診療所が当たり前の時代になるはずです。

私の次のテーマは“24時間365日”の安心です。急増する75歳以上の患者さんを対象とした、2次救急医療機能を有する新病院の創設を計画しています。受診のハードルが低く、超高齢社会において安心して入院でき、最期まで地域で住み続けられる環境を提供する新しい病院。まだ先の話ですが、多くの同志と共に力を注いでいきたいと考えています。

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