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親を安心して預けられる病院をつくりたい−大塚宣夫先生の思いとあゆみ

医療法人社団 慶成会 会長 大塚宣夫先生

京王よみうりランド駅を降りて、小高い丘を上ると、緑に囲まれた病院にたどり着きます。広々とした空間、随所に飾られる美しい生花、窓の外には四季折々の景色。
医療法人社団 慶成会は、1980年から続く青梅慶友病院での高齢者医療・介護の経験をもとに、2005年によみうりランド慶友病院を開設しました。病院でありながらも、医療的管理を最優先にせず、第一に患者様の生活・人生を考え、心穏やかに最晩年を過ごせる空間とサービス提供体制を構築しています。「自分の親を安心して預けられる病院をつくりたい」との思いから、青梅慶友病院と、よみうりランド慶友病院を開設された大塚宣夫先生。これまでのあゆみや現在の思いについて、お話を伺いました。


大塚先生のあゆみ−病院開設までの道のり

特別強い意志はなく、両親のすすめで医学の道へ
「なぜ医師になったのか」と聞かれても、実のところ、立派な答えは持ち合わせていません。あえていえば、両親がそう希望していたからです。

私は岐阜県の片田舎、両親は共に教師という家庭に6人兄弟の5番目、三男として生を受けました。あるとき、1つ上の姉が4歳でジフテリアにかかり、この世を去りました。両親はそのときの悔しい思いをずっと覚えていたのでしょう。子どものうち誰か1人くらいは医者になってほしいとの希望があり、進路選択の際、両親は「医者にならないか」と口にしました。

 

両親の希望を受けて医学部に入ったものの、いつもコンプレックスを感じずにはいられませんでした。なぜなら、明確な理由を持って医師を志す優秀な同級生に囲まれながら、自分にはそんな動機がなかったからです。


精神科医になったのも消去法だった
精神科を選んだ動機も不純でした。医学部6年生に上がる直前のことです。競技スキーの試合で大転倒し、頚椎(けいつい)を捻挫。それ以来、ひどいむち打ち症に悩まされるようになりました。少しでもおかしな姿勢をすると、直ちに頭痛や手足のしびれ、めまいなどが起こる状態で、立ち仕事を伴うハードな診療科は無理だと思いました。そして、消去法でたどり着いたのが、精神科医の道でした。このときもまた、ネガティブな理由で進路が決まったのです。

 

しかし、実際に精神科医として働いてみると、想像以上に面白くやりがいのある仕事だと感じました。都内の病院に勤務することになり、その最中の2年間、1971年から1973年までフランス政府の給費留学生として勉強する機会も得ました。


老人病院の存在と、ずさんな管理状況を知り、衝撃を受ける

フランスから帰国した翌年のこと、高校時代の友人から電話があり、相談を受けました。
「祖母が脳卒中で寝たきりになり、家で介護していたが、10日ほど前から夜間せん妄が加わって、家族で介護をするのも限界だ。どこかに預かってもらえる病院はないか」と。

 

受け入れ先を探す段階で、世の中に老人病院というものがあることを初めて知ります。ある病院を訪ねてみると、20畳くらいの大きな病室に隙間なく敷き詰められた布団の上に、オムツをさせられたお年寄りがただ転がされているような環境で、そこに入った人は3か月以内に亡くなるという説明でした。粗末な設備、暗い雰囲気、大変な不快臭、これぞ現代の「姥捨て山」といった光景に大きな衝撃を受けました。
さらに驚いたのは、そのような場所にもかかわらず、入院を希望する待機者が大勢いたことです。「半年待たなければ入院はできない」と言われました。

 

「親を安心して預けられる病院をつくる」初めて自分の意志で道を定めた
この経験から、自身の人生を考えるようになりました。
当時、自身は32歳、両親はすでに70歳を超えていました。「あと10年もしないうちに私にも友人と同じ状況が訪れるかもしれない。そのとき、両親をあのような場所には預けられない」と強く思いました。
同じ時期、たまたま出席した講演会で「これから日本は大変な勢いで高齢者が増えていく。そして寝たきりや認知症の介護をめぐる問題は社会に重くのしかかってくるであろう」との話を聞きました。この2つの出来事が重なり、「親を安心して預けられる病院をつくろう」と心に決めました。

 

医師になるときも、専門分野を選ぶときも、受け身や消去法で決めてきた。しかし、このとき初めて、自分の意志で歩むべき道が見えた気がしたのです。

 

 


身を粉にして働き、病院建設の土地探しを開始
「親を安心して預けられる病院をつくりたい」
そう決めてから、まず病院づくりの元手として1,000万円を貯めようと思い、行動を開始しました。月に20日以上の精神病院での当直も含め、大部分の時間をアルバイトに当てる生活にしました。目まぐるしい毎日のなかで、預金通帳を眺めることが、限られた楽しみのひとつでしたね。

 

1980年、青梅慶友病院の開設に至る
2年で目標の1,000万円に到達。何かと縁があり地価も安かった東京の外れの青梅の地で、土地探しを始めました。土地探しの途中で偶然に出会った地元の農協の組合長による全面的な支援を得て、1980年に青梅慶友病院を開設することができました。


意外にも、精神科医として勤めた間に学んだことは、老人病院の運営に非常に役立ちました。精神科の病院では患者さんを長期で預かることも多く、医療的ケアのみならず、生活全般に関わること、患者さんとご家族の関係を考慮したケアが必要でした。そして、それは青梅慶友病院が目指すケアと少なからず共通点があったのです。

 

また、認知症や夜間せん妄を含めた精神症状に対応することへの不安や抵抗感がなかったことも、精神科医であったことの恩恵といえるでしょう。当時はまだ認知症そのものへの理解が進んでいなかったこともあり、認知症の患者さんを診ることのできる高齢者向けの病院というのは、それだけでニーズは高かったと思われます。


147床でスタートした青梅慶友病院は、その後、社会の需要に応える形で3回の増築を経て、834床まで増床。現在は、700床で運営しています(2019年5月時点)。さらに、2005年には、よみうりランド慶友病院の開設に至りました。

 

両病院では、これまでにたくさんの方をお預かりしてきました。「自分の親を安心して預けられる病院をつくる」という思いは今も変わっていません。私たちの病院が、大切な親族を預けられる、あるいは人生の終末期を過ごしたいと思える場所になっているのならば、それほど嬉しいことはありません。

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