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医療の質改善と安全の担保を目指す“チームコンパス”とは――その成り立ちと有用性

東京大学 総括プロジェクト機構サービスエクセレンス総括寄付講座 特任教授 水流 聡子さん

1990年代より国を挙げて推進されてきた“医療情報の標準化”。その潮流のなかで、東京大学 特任教授の水流 聡子(つる さとこ)さんは工学的な観点で問題の解決に尽力しています。水流さんは“Team compass(チームコンパス)”という、医療の質改善と医療安全の担保を目標として作られたチーム医療支援システム(現時点では特に看護の計画と記録を支援するシステムアプリケーション)のコンテンツ開発に長らく携わってきました。医療や介護の現場で長時間労働が問題視されて久しい今、その解決の一助にもなり得るチームコンパスとそれに搭載された臨床知識コンテンツ(PCAPS・看護ナビ・看護実践用語標準マスター)とはどのようなものか、詳しくお話を伺います。


“チームコンパス”とは? 3つのコンテンツで構成

チームコンパスは医療の質改善と医療安全の担保を目標としてチーム医療を支援するために作られたシステムアプリケーション*です。現時点の利用のされ方としては、主に看護師が使用する看護計画・記録を強力に支援するシステムとなっています。チームコンパスを構成するコンテンツには、看護実践用語標準マスター、看護ナビ、患者状態適応型パスシステム(PCAPS:ピーキャップス)があります。

“看護実践用語標準マスター”は、MEDISから提供されている電子カルテのための厚労省標準用語マスター(医薬品・病名・臨床検査・画像検査・歯科病名・看護)の1つです。“看護実践用語標準マスター”は、看護業務や看護記録で使っている言葉を集め構造的に整理し定義した日常臨床現場における看護の用語集となっており、共通の用語・ものさしとして活用できます。看護の現場では“マスター”と略して呼ばれることも多いようです。

“看護ナビ”とは、症状別・疾患別に看護計画立案をナビゲーションするものです。従来の方法では看護師ごとの知識や経験に基づき看護計画が立てられていました。しかし看護ナビでは、症状ごと・疾患ごとに必要な観察項目やケア項目が管理できるように、3つの重要な観点からあらかじめセットされた標準看護計画となっているため、看護師の知識や経験の差による看護の質の違いを最小限に抑えることが可能となり、さらに関わる看護師が一貫した看護とケアを行うことができます。

“PCAPS”とは、患者状態を基軸に展開していくパス(臨床プロセスチャート)です。従来のクリニカルパス(入院中の予定をスケジュール表のようにまとめた計画書)は時間軸が基準で一方向にしか計画を進められないのに対し、PCAPSはそうではありません。たとえば術後のハイリスク期→術後急性期→術後回復期といったように患者さんの状態を基準にしており、状態に変化があったり問題が起こったりしたときにそのパスにとどまったり戻ったりできます。そのため、一方向には進まない(術後急性期が長引いたり、状態がよくなったり悪くなったり、合併症が起こったりする)患者さんそれぞれの状態に応じた適切な治療とケアが可能となります。

このうち看護実践用語標準マスターは日本におけるe-Japan戦略(後述)の流れのなかで作成され、2016年に厚労省標準となったものです。東京大学総括プロジェクト機構サービスエクセレンス総括寄付講座(元は、工学系研究科化学システム工学専攻の飯塚・水流研究室)は、看護実践用語マスターの開発に携わり、その後、看護ナビとPCAPSの開発にも乗り出しました。これら3つのコンテンツが合わさりチームコンパスとして実用化されるまでの経緯をご説明します。

*チームコンパスのアプリケーションは株式会社イノシアが販売しています。東京大学 飯塚・水流研究室の研究成果の実用化にあたり、初期開発にあたりました。搭載されているコンテンツは東大が主導しながら、奈良県立医科大学附属病院の全入院患者に適用できるように同院パス委員会と医療情報部の協力のもと開発され、その後もメンテナンスされています。


チームコンパス 開発の経緯

開発のきっかけは“医療情報の標準化”の推進

2001年に国内で“e-Japan戦略”という省庁を超えた戦略が公表されました。これは2005年までに世界最先端のIT国家になることを目指すプロジェクトです。医療分野においては“医療情報の標準化”が叫ばれるようになり、電子カルテの用語やコードの標準化が推進されました。

日本で電子カルテが稼働し始めたのは2000年前後です。しかし、当時の電子カルテは各大学病院がそれぞれの基準で作ろうとしていました。かろうじて医療の分野では病気や症状所見などの標準的な用語があったからまだよいものの、看護の分野には標準的な用語がないといってよい状況でした。つまり、共通の物差しを持たずに看護師が個人の経験や知識に基づいて看護観察をしていたわけです。基本的には1人の看護師が同じ患者さんをずっとみるわけではなく、複数の看護師が一人の患者の観察をしていくことになります。つまり看護の現場にこそ標準化が必要であるのに、不思議なことに当時はあまり問題視されていませんでした。それから個人情報保護法案により診療看護記録は患者のものという考えや、医療安全、医療の質改善という考え方が注目され、医療情報の標準化が必要になったという経緯があります。

 

“マスター”の作成から見えてきたさまざまな課題

医療情報の標準化を目指すe-Japan戦略のなかで、“マスター”と呼ばれる医療用語集が登場したのですが、まず医療の基本である医薬品や病名・臨床検査から始まり、次のステップとして画像検査、歯科病名、看護が対象としてあげられました。2000年ごろから水流らによる開発が始まり、これが、2016年に保健医療情報分野の標準規格として厚生労働省が決定した“看護実践用語標準マスター”であり、現在、チームコンパスのコンテンツの1つとしても採用しているものです。

マスターの登場後、課題となったのは、看護計画を作成する際のポイントが不明瞭であるということです。患者さんを中心に考えたチーム医療を提供するためには、どのような観察項目が必要なのか?――それは、病気そのものによる症状、生体侵襲(せいたいしんしゅう)の強い医療介入による合併症、薬剤による有害事象の3つが研究的に特定されました。この3つのポイントを押さえ、マスターを用いて看護計画の立案をサポートする “看護ナビ(看護思考プロセスナビゲーター)”を水流らは開発することになりました。

そして、飯塚・水流が次に開発したのがPCAPSです。患者さんの容体は表形式のパスのように一方向には進まないことが多くあります。PCAPSは、そのような患者さんの多様な容体を俯瞰図(臨床プロセスチャート)で捉え、治療の目標値に向かうのに必要となる医療・看護のプロセスを可視化したものです。工学における可視化設計技法という発想で作成されました。

 

一度頓挫したものの、2019年にようやく実現へ

看護実践用語標準マスター、看護ナビ、PCAPSはほぼ同時並行で研究と開発が進められましたが、実はこのプロジェクトは一度頓挫しています。2005年にメイン電子カルテベンダーが集うコンソーシアム(共同事業体)を作りアプリケーションの開発に乗り出したのですが、障壁が多く2017年頃に頓挫したのです。しかしその後、ドクターズモバイル株式会社の中尾 彰宏(なかお あきひろ)医師に出会い、PCAPSに大きな興味を抱いていただきました。そして2019年5月には奈良県立医科大学の協力を得て実際の現場に導入後、ようやく“チームコンパス”というアプリケーションの形で実装が叶いました。


慢性期医療の現場でチームコンパスはどう生かされるのか

慢性期医療の現場では、患者さんが複合的な問題を抱えている場合が多く、長期的に多数の医療従事者が関わることになります。そのため、共通の指標を用いて疾病管理を的確に行うためにチームコンパスは有用と考えます。たとえば回復期リハビリテーション病棟でリハビリを行う際、整形外科的な問題があるのか、脳卒中の治療後による問題があるのか、もしくは両方の問題があるのかにより看護計画は変わります。病棟を移ってきた時点で必要な看護計画が即時に作成されれば、その後必要とされる医療とケアを安全にもれなく遂行できるでしょう。

リハビリのほかにも、チームコンパスはがん患者さんやフレイルの人、人生の最終段階における人が入院されている医療療養病棟・地域包括ケア病棟の診療・看護にも対応できるようになっています。慢性期医療の現場では医師の配置数が少なく看護師が活躍する場面も多いので、その活躍をより後押しするツールの1つになるでしょう。


チームコンパス導入の病院で起こった変化

東京都西多摩郡にある大久野病院ではチームコンパスを導入した結果、さまざまなよい結果が表れたという報告を受けています。チームコンパスでは看護計画を看護師のみならず理学療法士や作業療法士、栄養士たちが参照できるため、チームでより的確に動けるようになったそうです。また、看護計画を短い時間で的確に立てられるようになり、看護記録にかかる時間が大幅に短縮されています。そして、余った時間やリソースを使って多彩な取り組みが行われるようになり、個々の患者さんの“喜び”に還元する循環が生まれました。たとえば、看護師の飼い犬によるドッグセラピーの実施や、嚥下障害(えんげしょうがい)のある患者さんの「最期にラーメンが食べたい」という願いを叶える試み、パン作りが上手な患者さんによる料理教室の開催などです。それまでは複雑で大変な医療・ケア、目の前の業務に追われていたスタッフが、患者さんそれぞれの思いや願いに寄り添ってそれを実現する姿勢を持てるようになったのです。スタッフの働きがいもさらに大きくなったと聞いています。これはまさしく医療の質改善を体現する1つの成功事例だと思います。

回復期リハビリ病棟・医療療養病棟のPCAPSコンテンツ・看護ナビコンテンツは、水流ら複数大学の研究者と大久野病院の医師・看護師らの共同作業を通して開発されました。


働き方改革にも寄与するチームコンパスの未来像

現在、チームコンパスでは膨大なコンテンツを無償で提供(アプリケーションとしては定額払いで、メンテナンスと新しい機能提供を実施)し、導入医療機関の現場のデータが日常的に蓄積される仕組みになっています。近い将来には、各病院で蓄積されたデータを分析し、各病院の改善の状況を評価することが可能になります。

また、これまで医療従事者は長時間労働を強いられる厳しい環境にありましたが、チームコンパスがそれを改善する手立ての1つになることが期待できます。現在働き方改革が推進されていますが、単に労働時間を減らすだけで一人ひとりのやる気やモチベーションが朽ちていくような施策では、まともな医療従事者はもちろん医療従事者を目指す人もどんどん減ってしまうでしょう。医療従事者の情熱を保つためには「医療は素敵な世界なのだ」と感じられる環境にする必要があります。チームコンパスを最大限に活用し、効率的に医療・看護計画を立案することで、余剰の時間で患者さんの喜びを感じたり、自分自身のウェルビーイング(身体的、精神的、社会的に良好な状態)を高めたりしてほしいと考えています。

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